偶像破壊運動も実態は……(?)

これも一種の歴史「修正」もののようだけれど、ジョン・ハルドン「ビザンツの偶像破壊運動:神話と現実」(John Haldon, Iconoclasm in Byzantium: myths and realiteis, Iconoclasm: The War on Images: 6th Annual Platsis Symposium, 2007)を読んでみた。8世紀と9世紀の偶像破壊運動の実像が従来言われているものとは違うのではないかとして、それを政治的な文脈で(いわゆるリアルポリティクスっぽく)見直そうとする小論(発表原稿らしく、出典などはもとになっている著書を見よとある。著書というのはこちら→Byzantium in the Iconoclast Era, c.680–850: A History)。もともと人の手によらない聖遺物には神的な力があるとされていたわけだけれど、これが680年頃にかけて、人の手による聖画などにもそうした力があると信じられるようになったという。この論文著者はそうした「シフト」の背景に、イスラム教の勢力拡大があったと見る。それまでアヴァール人やペルシア人の脅威を斥けてきた東ローマ帝国は7世紀半ばにアラブ人の台頭を許し、重要な属州だったエジプトを失う。そんな情勢の中、東ローマ帝国は新手のイスラム教に脅威を抱く。とくに正統な信仰と正しい行いという点で、イスラム教は正教側に問題を投げかける存在となっていた。アラブは神がビザンツを罰するために用意した手段なのだ、といった漠然とした恐れが社会に拡がり、これこそが人々を人為的な聖画の崇拝に走らせたそもそもの動機だったのではないか、というのだが、うーん、このあたりはどうなのか……。いずれにしても、そうした流れへの反動から偶像破壊論が鳴り物入りで登場した、と……。

論文著者は次に、従来の偶像破壊運動をめぐる一般的な見方として、「偶像破壊論者が積極的に破壊行為をなしていた」「俗人たちは偶像破壊に反対していた」という二点を代表例として挙げて、実際にはそれらの見識には根拠がなく、むしろ9世紀以降の修道僧たちが後から歴史を書き換える形でそうした見方を作り上げていたことを指摘している。著者が考える実像はというと、次のようなものになる。俗人たちはほとんど無関心で、偶像崇拝論の擁護にあたったとされるエイレーネー皇后(レオン4世の妻)も、実は偶像に関してとくにこだわりがあったわけではないのではないかという。しかも偶像破壊論は大都市を中心に展開され(聖像擁護派だったニケフォロスのテキストからわかるという)、地域的にも限定的だったという。偶像破壊運動が吹き荒れたとされるレオン3世やコンスタンティノス5世の治世では、社会的エリート層(有力市民や軍の士官など)は立場的に反対しづらい状況の中でその政策に付き従っていたようで、俗人からの反対運動というのはほとんど見られないという。また、破壊論と擁護論で二分されたという聖職者たちの間でも、結局は有力な後ろ盾である宮廷に近いか遠いか(地理的・コネ的に)でそれぞれの立場が決まっていた面が強いといい、そもそもある程度の自由があって、しかもただ黙ってはいられない学僧たちだけに、破壊論への反対もきわめて政治的な思惑で動いていたのではないかという。偶像をめぐる議論は政争の具だった……のかしら?

一つ面白いのは、第二の偶像破壊論の隆盛期(815年から820年代中盤まで)をもたらしたレオン5世については、偶像破壊令を出した理由がはっきりしているという話。過去において偶像破壊運動がなされていた時代と政治・軍事的に成功を収めた時代とが重なっていたことから、この皇帝は両者の間につながりがあると思い込んでしまったらしい。うーん、こういう政治家はいつの世もいるものなのか……。そこでもやはり、実質的な反対運動もなければ、処罰もなかったという(処罰はほかの政治的犯罪の廉でだった)。

聖像破壊の場面が描かれた、9世紀のクルドフ詩編の一葉