キケロ雄弁術と聖女伝

キケロは12世紀ごろにおいても、ソールズベリーのジョンとかいろいろな人々に影響を及ぼし続けているとされ、それはときに「キケロ主義」として括れたりもするけれど、思想面ではなかなか具体的な事例としては析出できなかったりもする。ならばもっとレトリカルな面、文章レベルでの影響関係はどうか、といった点が気になるけれど、まさにそれとの関連、キケロの雄弁術(レトリック)との絡みで、俗語で書かれた中世のいくつかの聖人伝を取り上げてみせた論文が紹介されていた。さっそくざっと目を通してみる。キャスリン・ヒル・マッキンレー「キケロ的雄弁術と中世フランスの聖人伝」(Kathryn Hill McKinley, Ciceronian rhetoric and the art of medieval French hagiography, PhD Dissertation, University of Maryland, 2007)というもの。具体的には、12世紀〜13世紀ごろに北部フランス語方言(アングロ・ノルマン語など)で記された、女性の殉教者を描いた聖人伝をいくつか取り上げ(バーキングのクレメンスによる聖カタリナ伝、逸名作者による聖アグネス伝、聖バルバラ伝−−いずれも4世紀の聖女たちだ−−、さらにベギン修道会関連でジャック・ド・ヴィトリによるオワニーのマリー伝、ポルスレのフィリピーヌによる聖ドゥスリーヌ伝)、それらにキケロの雄弁術の伝統がどう息づいているかを論じている。なるほど、聖女たちは殉教に先だって裁判にかけられたりするわけだけれど、そこで彼女らは「雄弁家」として振るまい、まさしくキケロ的な雄弁を見事にふるってみせる。つまりそこには、聖人伝作者が学んだ雄弁術の素養が示されているとともに、登場人物である聖女たちみずからがそうした雄弁術を体現し、二重に伝統に与しているというわけだ。しかもそれらが世俗語で書かれていることも見逃せない。つまりは世俗語が古典的伝統を取り込む契機になっているほか、後にはその伝統が独自の散文形式を生み出す母体となるのだ、と。

ちなみに雄弁術がらみで当時最も影響力があったのは、キケロの『発見について(De inventione)』と、偽キケロの『ヘレンニウスに与える修辞学書(Rhetorica ad Herennium)』だったという。前者に関してはシャルトルのティエリーが著した註解も有名なのだとか。

15世紀のTübinger Hausbuchから、自由七科の図。修辞学(レトリカ)は一番右端
15世紀のtubinger hausbuchから、自由七科の図。修辞学(レトリカ)は一番右端