「悪魔の肖像」

今年はちょっと美術史家のダニエル・アラスを著作をいろいろ読んでいこうかと思っている。で、第一弾として『悪魔の肖像』(Daniel Arasse, Le Portrait du Diable, Les éditions arkhê, 2009)を早速見てみた。小著ながらなかなか読ませる。中世末期からルネサンス期にかけての悪魔の表象をわずか70ページで駆け抜けるというもので、2003年に59歳で急逝してしまわなかったなら、たぶんもっと長大な著作の緒論になるはずだったのではないかしら、と思われる。そんなわけで、扱われている絵画の例も少ないながら、全体の見取り図を要所要所を押さえて示そうという意図は逆に鮮烈に伝わってくる感じだ。

中世末期ごろの宗教画において悪魔の怪物的な形象は、神の創った秩序を否定するという明確な役割をもっていた。宗教画は悪魔が誘惑者であることを見る者に示し、信者の行いを正し告げるという機能を携えていて、そのため悪魔の像は「聖なる恐怖」を喚起するものでなくはならなかった。ところが、その後人文主義が台頭し、信仰がモラル化・個人化していくとともに悪魔の形象も内在化していき、より哲学的・アーティスティックな次元が加わって怪物的な形象ではなくなっていく。絵画そのものも、もはや想起の機能を担っていた宗教画ではなく、古典的レトリックにもとづく場面を描くものになり、悪魔も恐れを喚起するのではなく、芸術家への敬意を想起させるものになる。悪魔の顔は人間の顔の戯画で表されたりもし、グロテスク(滑稽・怪奇趣味)が幅を利かす。トリエント公会議(1545〜63)後は、教会はグロテスクの使用を糾弾するようになるが、一方で地獄にいる、あるいは暴力行為におよぶ人間の表象には悪魔的表象の適用が許され、こうしてある意味、悪魔は人間と外延を共有するようになる。理想美の歪曲、醜悪さが悪や罪の表象とされ、人相学的な考え方が前面に出てくる。逆に悪魔の表出は、悪魔憑きとたとえば公開での悪魔払いなどの形を取り、そういう形でしか見られないもの・表象化できないものとなっていく。かくして内面化は一つの完成を見る……というわけだ。大まかにはこうした流れに沿って、同書では30点ほどの絵画が挙げられているのだけれど、うーむ、これではまったく見足りない(笑)。小著なので仕方がないのだけれど、個々の論点ごとにもっと多くの事例を挙げてほしいところだ……。というか、そういう補完でもって「ありえたかもしれない大部の著書」を想像してみたくなってくる。