寄り添う哲学

先月の村上本に触発されて(笑)このところ、少しずつでもレヴィナスの未読のものを読もうかと思っている。レヴィナスは個人的に、なぜか主著ではないものばかりをつまみ食いしてきた感じがあって(『タルムード四講話』とか『貨幣の哲学』とか)、改めて少し長くこだわってみたいという気がしている。そんなわけで、まずは『われわれのあいだに』(Emmanuel Levinas, Entre nous – Essais sur le penser-à-l’autre, Livre de Poche, Grasset, 1991)。年代順に講演や雑誌発表の論考などを集めた論文集。もちろん邦訳(合田正人ほか訳、法政大学出版局)も出ているが、個人的にはできればレヴィナスは(も?)原典で味わいたいところだ。語彙ひとつとってみても通常とは違う意味合いが込められていると言われるけれど、そうはいってもなにやら普通にも読めてしまい、こちらが受け取る文意がどこからか微妙にずれていく感覚があって、滑走するような心地よさと、宙づりになっているもどかしさを両方感じ取ることができたりして、なんとも複雑な気分になる(決して悪い意味ではないし、そもそもそういうのは嫌いではないのだけれど)。ある種の人がとても「ハマる」らしいというのも頷ける。

冒頭の「存在論は根源的か」という短い論考は1951年初出のもの。当時の「現代的」存在論が、西欧の理論的伝統と断絶する形で実存に身を沈めているとの認識から、他者の問題についても知見の逆転を試みる。他者の理解というのはそもそもが存在の「開かれ」なのだといい、他者を独立した「モノ」のように扱わず、呼びかけ、祈り、語りかける宛先とすることこそが他者の理解なのだ、とレヴィナスは訴える。他者との関わりは突き詰めれば「祈り」に還元され、「理解」がそれに先立つことはない。これをレヴィナスはreligionであるとする。おそらくはreligionの原義である「強い(あらためての)結びつき」「再度の結びつき」ということなのだろうと思うけれど、いずれにしてもディスクールの本質はその「祈り」にある、とレヴィナスは断言する。

さらに他人との「遭遇」(接触)も逆転される。相手をモノのように扱うとは、要するに他人を「所有」するということになり、所有とはこの場合、存在する者としての相手を部分的に否認することになる。他人と「出会う」とは、そうした所有の拡がりの中にあって、相手を所有しないことだ、とレヴィナスは言う。相手を、たとえばレッテルを貼るなどして固定的に捉えることは、相手を抹消(抹殺)することでもあり、「私」は絶えずそういう抹消の望みとともにあるけれど、抹消が成就してしまえば、相手はこちらの手をすり抜けてしまう。このジレンマの中で相手と文字通り顔を突き合わせ対峙すること、それが遭遇(接触)のあからさまな姿にほかならない……ということなのかな(?)。この、境界線がどこかほつれるような、狭間の思考のような文面はたまらない魅力だ。まいど個人的な話で恐縮だが、認知症の親を相手に、理解しにくい奇行の闇と接していると、こうした文面はそこいらの安っぽい癒やしの言葉なんぞよりもよっぽど深い安らぎと残響をもたらしてくれるように思える。というわけで、いまさらながらだけれど、レヴィナスは新たな座右の書候補にすらなってきた(笑)。