デカルト時代の思想的布置とか

引き続きアリュー『スコラ学者たちの中のデカルト』。同書の基本姿勢は、デカルトの斬新さはそのままに受け入れつつも、それが準備された様々な流れを丁寧に見ていこうとする点にあるようだ。いきおい、デカルトそのものは時にむしろ後景に退き、その周辺の人々がクローズアップされ、生き生きとした筆致で記述される。そのあたりが、著者の筆が最もノッっている、あるいは冴えているところに思える。たとえば第四章では、トマス派・スコトゥス派の対立軸の一つとなっている質料形相論の扱いと、それらに対立する形でのデカルトとその後継者たち、さらには反対者たちの立場がまとめられているのだけれど、デカルトはほんのダシという感じで、論考の主軸は質料形相論とデカルト的粒子論、あるいはデカルト的立場への批判といった、各論者たちが織りなす全体的な布置を描き出すことにあるという印象だ。メインストーリーとしては、個体化理論などを通じ、スコラ周辺で形相の意味合いが薄れ(スコトゥス派では形相は個体化の原理とされながらも、複合物を構成する際の形相の比重は弱まっていく)、一方で質料の重要性が高まり(フランコ・ビュルヘルスダイクのように、形相にも質料にも個体化の原理があるとする人物も!)、やがてデカルトへと通じるような「粒子論的・機械論的」立場が現れてくる、といった話になる。

第五章ではそうした布置がいっそう鮮明に取り上げられる。デカルトとスコラ学、原子論などを対照することで、デカルトがスコラ学とは地続きであり、むしろ当時の原子論との間に断絶があるということを浮かび上がらせようとしている。著者によると16世紀ごろのスコラ学では主に三つの変化があるといい(インペトゥス理論の採用、元素などにも内在的限度があるとするミニマ・ナトゥラリアの思想、そして真空内での運動概念にもとづく、スコラ内部でのアリストテレス批判)、結果的に粒子論的な考え方と外見的に近接するようになっていたという。とくにミニマ・ナトゥラリアの考え方は、最小のものを想定し、その希薄化や凝縮が消滅と生成であるとする考え方を導く。原子論の代表格とされるのはセバスティアン・バッソなのだけれど、希薄化や凝縮の考え方などデカルトとの共通点がありながらも、その徹底した「原子」の考え方はデカルトのものと決定的に異なり(そもそもデカルトは物質が無限に分割されうると考えている)、さらにまた、エーテルなどの扱いや運動の原因としての神の捉え方にも違いがあり、両者の間には見かけ以上に大きな溝があるとされている。

逸名作者によるビュルヘルスダイク(Burgersdijk)の肖像
逸名作者によるビュルヘルスダイク(Burgersdijk)の肖像