一四世紀のアンチ不可分論

ジャック・ズプコ「唯名論、不可分論と出会う」(Jack Zupko, Nominalism Meets Indivisibilism, Medieval Philosophy and Theology, vol. 3, 1993)という論考を読む。これは結構重要な論考のようだ。ここでいう不可分論(indivisibilism)とは、要するに数学的な点などのような不可分なものの実在を認める立場をいう。命題の真偽条件の議論に関連して、一四世紀には、点や線、表面といった数学的用語を用いた命題の場合に、そうした用語が指すものを実在とするか概念とするかで論者たちの見解が分かれていた。不可分論はそうした流れの一つで、代表的な人物としてハークレイのヘンリー(1270-1317)がいた。もちろん当時はすでに唯名論が一般化していて、そのため不可分論のマイノリティではあった。この論考は、ヘンリーも議論している「平面と球は一点で交わるか」という当時盛んに取り上げられた問題(逸名著者の自然学注解が嚆矢だというが、それはリチャード・ルフスが著したのではなかいという話もあるようだ)を取り上げ、不可分論を批判する側のオッカム、ヴォデハム、ビュリダンがどう対応したのかを検証するというもの。

ヘンリーやその後のウォルター・チャットンなどは、球が平面に接する際には「何か」において接しなければならないが、それは分割できるものであってはまずいと議論した(分割できるとしたなら、接触は一点だけにとどまらず、圧迫が加わったり相互にめり込んだりすることが導かれてしまう)。けれどもそうして掲げられた不可分の点という考え方は、アリストテレスの諸原理に反してしまう。アリストテレスは連続した大きさは無限に分割できなくてはならないと考えていたし、点同士が接触することはありえない(二つの点が同じ空間を占めることはできない)と考えていた。不可分論者側は様々なモチーフからアリストテレスの接触の議論を否定していた。論文著者によると一四世紀のアンチ不可分論には、(1)分割論:連続体は原子から成るのではなく分割可能な部分から成る、(2)非実体論:不可分なものは物理世界に存在しない、(3)無限論:連続体を構成する部分は無限に分割可能だ、といった議論がセットになっていたという。

で、論考の主役となる三者は、まさに三様の回答を示していて興味深い。オッカムは、そもそも完全な球と完全な平面があった場合には、両者は厳密な意味で「直接に」接することはできないと応える。両者が接する場合には(つまり間接的に)必ずなんらかの実体の外延が必要だというわけだ。ヴォデハムも、球と平面が接しうるのならば、それは無限に分割可能な何かにおいて接するのでなければならないとする。けれども同時に、分割可能なもの同士が直接的に接することができるようにアリストテレスの接触概念を修正しようとする。接するもの同士は外延として互いに隣接し連続しつつも、相手の境界は境界としてそのままに保つとし、かくして分割可能なものが、あたかも不可分のものであるかのようにして接触するのだと解釈する。うーむ、なかなか微妙だ。それでもここまではそれほどわかりにくい話ではない。問題なのはビュリダンだ。

ビュリダンはまた別の角度、今度は論理学的意味論からのアプローチをかける。これがなんだか妙にわかりにくいのだけれど、「球が平面と接する」という場合、両者は自立的意味(categorematic)でのなんらかの「全体」同士として接触しているのであり、その「全体」は本来的はに分割可能でなければならないのだが、とはいえ侵入しあうわけではないので、共義的な意味(syncategorematic)での全体(混じり合った感じの?)として接しているわけではない……。んん?つまりは両者それぞれの接触部分が、あくまで両者それぞれの部分をなしている(相互に相手を侵犯しない)限りにおいて、その命題(「球が平面と接する」)は真となる、ということなのかしら?でもそれだと、ヴォデハムが言っていることと中身はほとんど変わらないような気も……(苦笑)。おそらく重要なのは、分割可能なもの同士の隣接では、その「接する」部分同士が際限なくより微小なものに分割でき(これを同論文では、proportional division ad infinitum、無限までの応分の分割と表現している)、決して混じり合わないということなのだろう。不可分の点で接するということは、接する両者がその点を共有することになり、いわば「混じり合」ってしまうことになる。これは認められない、というわけだ。けれどもビュリダンは、あえて「点」で接すると言ってよいのだと考えている(!)という。ただしその場合の点は、不可分なものではなく、分割可能なもの(接する同士のいずれか)に属する限りでの点だとされている(とまあ、この論文著者の議論からは読める)。ここにおいてビュリダンは、ヴォデハムを挟んだ形でオッカムとのある種鮮やかなコントラスト(方法的にも、議論としても)を見せている。うーん、こうした理解でいいのかちょっと心許ないが、ビュリダンについてはいずれあらためて検討したい。