ブラシウス「魂の諸問題」から 1

(このところまた微妙に体調不良。以下は3日ほど前に記したアーティクル。あまり見直していないのだけれど、一応アップしておく)

前にも取り上げたヴェスコヴィーニ校注によるパルマのブラシウス『魂の諸問題』(Vescovini, Le Quaestiones de Anima, Leo S. Olschki Editore, 1974) から、本文の中身を大筋だけ断続的にまとめてメモしていくことにしよう。まずはパドヴァの1385年の写本のほうから、今回は1-8「知的魂は身体(コルプス)から分離できるか」。最初に、できるとする諸論と、できないとする諸論(アリストテレスにもとづく)のそれぞれの議論が列挙される。焦点となるのは「魂には固有の働きがあれば、肉体(物体)から分離しうる」かどうかをめぐる議論で、これを中心にブラシウス本人の論が続く。検討するのは主に次の三点。(1)魂に固有の働きがあるという前提は、コルプスからの分離の条件になっているかどうか、(2)魂にまったくコルプスに依存しない働きがあるというのは絶対的に正しいか、(3)魂は死後に肉体を離れるというのは自然の理に反しないか。

(1)についてブラシウスは、上の命題について条件節と主節の関連を否定している。天球を動かす魂は固有の働きがあるが、コルプス(天体のこと?)から分離することはない。神もまた創造などの固有の働きがあるが、コルプス(ん、神のコルプスって?)から分離することはないetc。ただし留保として、魂に固有の働きがあり、いかなる形でもコルプスに依存しないならば、その限りにおいて分離する可能性はある、としている。(2)についてはまず、魂の固有の働きというものを、みずからに内在し他の力に依らない働き(笑う可能性が人間に内在しているように)に限定する。次いで、「コルプスへの依存」の意味をいくつか分けて検討した後、知的魂は認識を形成していないなら固有の働きをもたないと断定する。ここで認識論が少しばかり展開する。知的ハビトゥス(スペキエスや認識に代わる、内的形成物(informata)をいう?)は事物の質料に属するものとされ、知(scientia)とは、みずからの潜在性から引き出されて質料に存するとされる「基体的な(subjective)性質」のことをいう、としている。しかしながら魂が実際に知解する場合の作用は魂に基体的に存する。したがって、あらゆる知的理解はコルプスに依存し、人間の魂に関する限り、固有の(非依存の)働きというものはない……。

(3)はというと、まず「知的魂は肉体から離れ、永劫的に離れたままになるのか」という命題に置き換え、この命題は「知られる」のか、「信じられる」のか、「臆見を抱かれる」のかと問うている。これら知・信・臆見の違いをめぐる議論が示され、さながらこの命題の不可知論が展開していく。臆見として示され、信の対象にはなりえても、確証として知られることはない……etc. そもそも魂が神の創造によるということも、明証的ではない、体験からも自明視などできないではないか、と。そしてそこから次に、知的魂は(創造されたか否かとは別に)、永続するようよりは費えるとするほうが蓋然性が高い、とブラシウスは論じる。分離した魂が永続するとするなら、それはより完全なものなるがゆえだが、今よりも後のほうが完全性が高い理由はない、そもそも、世界は無数の魂で溢れかえってしまうではないか、それが何の役に立つというのか、無用な多数が?さらにはノアの洪水による浄化をも引き合いに出して、浄化からの他の動物や人間の誕生を説き、それをもとに人間の知的魂もまた、質料の潜在性から引き出された(educta)、生成・消滅が可能なものではないかとまとめている。星辰の影響が唯一そこに関わってくる……。その後に続く、いくつかの疑念とそれらへの対応の部分で、善行によって欠陥を克服した魂を神がなんらかの永続的な身分へと高める、と信じることは可能だとして、教会側の教義への目配せをしているらしい点も面白い。