神学から数学へ(14世紀)

ついこの間入手したばかりの本だけれど、ジョエル・ビアール&ジャン・スレレット編『神学から数学へーー14世紀の無限論』(De la théologie aux mathématiques – L’infini au XIVe siècle, dir. Joël Biard et Jean Celeyrette, Les Belles Lettres, 2005)は内容的になかなか豪勢な一冊。14世紀の論者たち(ドゥンス・スコトゥス、ヴォデハム、ブラッドワーディン、オートレクール、リミニのグレゴリウス、オレーム、ビュリダン、ジャン・ド・リパ)が無限について論じた文献の仏訳アンソロジー。それぞれの抄録には研究者による解説もついていて、全体の布置を見通す上でとても有益に思える。まだとりあえずジョエル・ビアールによる序文をざっと見ただけなのだけれど、これまた全体的な流れを整理した、とても参考になる考察。というわけでちょっとメモしておこう。

アリストテレスは、実体はすべて有限なものとしてあり、無限は可能性としてしか存在しないとしていたわけだけれど、この「否定的・欠如的」な無限概念は13世紀の神学者たちにも受け継がれていく。彼らはとくに1240年代から、至福直観(無限の存在を有限の知性が捉えることが前提とされる)の文脈で「無限」についての議論を盛んに行うようになる。否定的・欠如的な無限概念を肯定的な属性として捉えるようになるのは、ゲントのヘンリクスが嚆矢だといい、続くドゥンス・スコトゥスが精緻化し、かくして「現実態としての(in actu)無限」が神の属性として認められるようになる。量的な観点からではなく、有(存在者)の観点から見た様態としての無限。広大さの無限と権能としての無限。両者の関係性の議論は、たとえばはるか後のジョルダーノ・ブルーノあたりまで綿々と連なっていく。

前にちらっと触れたけれど、14世紀の議論では「無限」の意味を共義的に(syncategorematic)に取るか、自立的に(categorematic)に取るかという区別が立てられていた。この区別は実はプリスキアヌスの文法学にまで遡るのだそうだが、無限の概念にこれを当てはめた事例としてシャーウッドのウィリアム(13世紀)が挙げられている。「実体は無限である」という場合に、それをそのままの意味に取るなら自立的意味だし、それが述語との関係で意味が変わるとするなら(実体の数が無限・実体そのものが無限etc)共義的意味、というわけだが、この共義的意味での無限概念の解釈は、ソフィスマタの議論(ビュリダンなど)と絡んで論理学的な問題になり、こうして数学的アプローチを呼び込むことになる(リミニのグレゴリウスなど)。ここでの主戦場はオックスフォード。当時問題とされたうち代表的なものは、無限同士の比較は可能か、無限に何かを付加したらそれはより大きな無限になるのか、といったもの。無限を実体的に捉える立場からすると(ハークレイのヘンリーなど)、無限同士が不均等でありうるという議論が出てくる。これは「全体は部分よりも大きい」という、それまで自明視されていたテーゼが必ずしも真ではないという話を導く(ニコル・オレームなど)。さらに、世界は起点はあってもその先は無限であるという、とくに13世紀にフランシスコ会派が擁護し一般化した神学的テーゼも、連続体の構成の問題という形で再考される。前にチラ見したように、連続体が不可分の粒子のようなものから成るという論(ハークレイ、チャットンなど)と、それに対する反論(ヴォデハム、ブラッドワーディンなど)とが入り乱れ、さらに主戦場もパリへと拡大し、いよいよ乱戦模様がいっそう色濃くなっていく……のかな?うーむ、このあたりの錯綜具合いは少し丹念に追ってみたいところ。メルマガのほうでやることにしようかしら……。