イソノミア問題

連休後半はつらつらと柄谷行人『哲学の起源』(岩波書店、2012)を読んでいた。前史を抑圧するかのごとくプラトン(が描くソクラテス)をもって正史の端緒とする「哲学史」を、あえてアテネ中心史観だというふうに喝破し(そういう言い方ではないが)、それ以前のイオニアにおける自然哲学を再評価しようというわけなのだけれど、その際、自然哲学の成り立ちにおいてイオニアの社会状況の反映を読み込んで、いわば「哲学の社会学史」といった視点から論じているところがなかなかユニークではある。そこでイオニア社会の特徴として提示されるのが、「イソノミア」(同書では無支配と訳されている)というキーワード。アテネなど一連のポリスが僭主制もしくはその変形的な支配形態としての民主制に移行していく中、イオニアの社会は対照的に「支配」に固着することがないイソノミアによって特徴づけられていた、と著者は述べる。なぜそうだったかというと、商業・交易の発達により、人が絶えず移動する(新たな植民を興す)という動的な社会だったからだという。そうした個の移動=運動の発想は、後のタレスからデモクリトスにいたる自然哲学の系譜にも反映されている……というか、彼らの哲学が「失われつつあったイソノミア」を取り戻そうという試みだったと著者は考えている。

なるほど、デモクラシーと対照的だとされるイソノミアを大きくクローズアップしているのは刺激的だ。けれど、それにしてもそのイオニアにイソノミアがあったということが確証されていなければ、この壮大な反哲学史(従来の哲学史に反するという意味で)の試みは壮大な空論にしかならないのでは、という気がした。で、実際のところ、それは確証されているとは言いがたい。下敷きになっているのはハンナ・アーレントの議論だが、それだって断定的に推論が綴られているにすぎないし、ほかにヘロドトスなどの使用例がいくつか言及されているけれど、イソノミアなる統治形態が本当あったことを確証する根拠には乏しい……。事実、同書を受けて特集を組んだ雑誌『atプラス』15号では、納富信留氏の寄稿がそのあたりを取り上げていて、イソノミアには「アルケー」「クラトス」という支配を意味する語尾が入っておらず、したがって支配の意味合いがないというアーレントの思弁を批判している(「エウノミア」「アウトノミア」などの語を見ても、そこに支配の意味合いがないわけではないという)。また、イオニアの植民地としての起源説や、初期のイオニアに平等の社会や理念が存在したという話そのものについても批判的な立場を取っている。学問的に究明される「事実」から議論を組み立てるのでなければならない、というのが同氏の基本スタンス(至極当然の)で、してみると、アテネ中心史観を批判するための視座としてのイオニア再評価の目論みも、今の段階では性急な理想化・理想主義として斥けられなければならないことになりそうだ。もっとも、同誌のほかの論者たちも述べるように、少なくともその議論から汲むべき、現代に通じる論点の数々は、活かす方途を考えてしかるべきかもしれないが……。