集合知問題

私用でまた田舎へ。今回は新幹線内で西垣通『集合知とは何か』(中公新書、2013)を読む。これは小著ながら問題提起を含む一種の起爆剤かも。新幹線での移動のかったるい時間をふきとばすにはまさに最適(笑)。序盤はネット時代の集合知にもとづく直接民主主義待望論を批判。アローの定理などが引き合いに出され、一般意志2.0などは安直すぎると斥けられる。中盤は心身問題を中心に、一人称的なクオリアと、三人称的な客観世界とを繫ぐものとしての集合知の可能性が論じられる。このあたりはオートポイエーシスやサイバネティクスの通俗的理解の批判を経て、階層化された閉鎖システム(たとえば閉鎖システムである個人同士の対話を、これまた閉鎖システムである第三者が観察し知として獲得していく)というモデルが提案される。それはさらに拡張(?)されて、システムと環境のハイブリッドという概念が検証される。そして終盤。ライプニッツ的なモナド同士の対話から、中枢となるモナドが自然発生するプロセスを再現しているらしい、西川アサキという人のシミュレーションが取り上げられる。もとは知覚器官から脳の中枢が練り上げられる仮定のシミュレーションだというそのモデルを、著者は社会のコミュニティにおけるリーダーの輩出という文脈に読み替える。で、そのシミュレーションからは、開放系よりも閉鎖系のほうがそうしたリーダーは輩出しやすく、しかも安定化するという意外な結果が導かれるのだという。開放系では外部環境に他律的に依存して、唯一のリーダー(独裁)からリーダーなし(アナーキズム)の状況まで揺れ動き、安定しないのだそうだ。

すべての知識をオープンに、という方向性は、社会集団)においては理想とはならないのではないか、という、現在のIT系の進む方向性に警鐘を鳴らそうというのが著者のここでの眼目だ(同シミュレーションは、モナド同士が相手の「信用度」を、自分がもつ知識への応答をもとに評価するという形で進んでいくらしい)。なるほど興味深い結果ではある。でも、このシミュレーションの精度などがよくわからないので、なにかこう判断に迷う感じが拭えない……。閉鎖・開放の度合いは現実世界では様々だろうし、各種の要因で大きく変化するだろうし。システム内部のメンバーには不正行為なども一定数存在したりして、とてつもなく複雑になっているはずだ。リーダーへの従属関係はメンバーの価値観の多様性を損なわない程度の「ほどほど」がよいとされるけれど、それがどの程度を意味するのか見極めるのも難しいところだろうなあ、と。さらに、脳と感覚器官の関係と、リーダーと集団メンバーの関係は本当にパラレルに考えてよいのか、という疑問もある。自然発生的には仮にそうした突出があるにしても、生体はそれを強固なプログラムで囲って崩れないようにしてしまうのだとしたら、もしそういうメカニズムが社会集団においても働きうるのだととしたら……なんて考えると空恐ろしい(苦笑)。個人的には素朴な疑問や妄想がいろいろ沸き上がってきて、その意味でもとても刺激的な一冊だ。