ティマイオス研 – その1

さて、この夏は個人的にティマイオス関連を追っていくことにするぞ、っとうわけで、いろいろまとめていこう。きっかけはいろいろあるけれど、たとえば大橋氏のブログ『ヘルモゲネスを探して』に連載されている「伝ロクリのティマイオス – 世界と魂の本性について」などもその一つ。個人的に『ティマイオス』は随分前にLes Belles Lettresの希仏対訳本やReclam文庫の希独対訳本で読んで以来、すっかりご無沙汰している。そんなわけでしばらく前からLoeb版でもって眺めなおしているところ。中盤以降の人体の形成とか自然学的な部分などはとりわけすっかり忘れている(苦笑)。テキストは同じでも版組みなど体裁が違うと、前には気づかなかった細かなところにちょっとした発見があったりして楽しい。

で、これに合わせて参考文献もいろいろ取り寄せてみようかと。まず入手したのは、フランチェスコ・チェリア&アンジェラ・ウラッコ編『ティマイオス – ギリシア、アラブ、ラテン世界の解釈』(Francesco Celia, Angela Ulacco, Il Timeo – Esegesi greche, arabe, latine, Edizioni Plus – Pisa University Press, 2012)。タイトル通り、古代からラテン中世までの注解の歴史的考察を時代順に配した論集だ。冒頭のティマイオスの写本の歴史と、続くティマイオスの間接的伝統についての論考はさしあたり後回しにして、まずは三章めの「古アカデメイア派におけるティマイオス解釈」(ブルーノ・チェントローネ)から読み始める。これまたメモしておこう。まず『ティマイオス』の対話篇の注釈といえば、その嚆矢とされるのが古アカデメイア派のクラントール(〜bc279頃)なのだそうだが(プロクロスによる証言)、著者はこれはテキスト全般の注解というよりは解釈の難しい箇所への特別な注だったのではないかと推測している。当時の古アカデメイア派でとくに議論となっていたのは、一つには世界の誕生という問題を字義的に取るか寓意的に理解するかという問題。「誕生した」ものが「不滅」だという文言が、当時においては両立しうるとは考えられておらず、さらには大元となる不変なる神という概念とも相容れないと見なされていたという。そのため、クラントールの師匠だったクセノクラテスなどは寓意的な解釈を示しているのだという。「世界に始まりがあるという文言は、時間における誕生(γένεσις ἀπὸ χρόνου)という意味ではなく、秩序についての説明上の便宜(διδασκαλίας χάριν)のためにそう語られている」云々(断片)。つまりは世界が元素から成ることを言うための寓意的表現だというわけだ。これがさらに次の世代のクラントールになると、より字義的な解釈の方へと向かい、「世界が生まれたものであるとは、自己以外の原因によるものだという意味である」としている(プロクロスによる引用)。で、こちらの解釈が後代に新プラトン主義において取り上げられることになる。

魂の定義についても、クセノクラテスがそれを「自力で動く数」であるとして、数的に構成されているという話を踏まえつつ生命と運動の原理という伝統的解釈を重視するのに対して、クラントールは魂の認識論的機能(類似するものが類似するものを認識する)を重く見、やはりいっそうテキストに字義的に従っているのだという。クラントールはすでに生前のプラトンを知らない世代なのだそうで、ゆえにテキストを重視していたのではないか、というのが著者の見立て。テキストに拘ることでその教えの再構築を熱心に模索していたのだろうというわけだ。なるほどその熱意は、たとえば『国家』において一部剽窃と非難されたプラトンを、クラントールが弁護している点にも窺えるのかもしれない。