ペトラルカと「模倣」

先日のペトラルカ話でもちょっと触れた「模倣」問題。これに関連するものとして、邦語論文に目を通してみた。田中佳佑「ペトラルカの文体模倣論とそのキケロー派論争への寄与」(『成城文藝』vol.205, 2008)(PDFはこちらからというもの。これもなかなか興味深い。ペトラルカ主義も、古典作家の模倣をめぐってキケロのみを模すのか(ベンボなどの立場)、それとも複数の文体を折衷するのか(ジャンフランチェスコ・ピコ・デラ・ミランドラなどの立場。この人はあのジョヴァンニの甥だそうだ)で、内部的には対立が起きていたのだといい、論考はこの両者の対立軸が具体的にどういうものだったのかを検討している。そもそもペトラルカが考えている「模倣」というのは、人間的な生き方を標榜する古典ギリシア的な模倣ではなく、特定の理想化された個人の模倣で、その最たるものとしてキリストのまねびがあった。つまり、中世から受け継がれた非人間的な驚異(奇跡)を尊ぶ伝統がその基礎になっているのだという。とはいえペトラルカの場合、その「驚異の」宗教的な意味合いは削がれ、特定個人の文体(個人的様式)の模倣、個人の資質への賛美が問題になっていた。ペトラルカにあっては「父と子」が似ているというような模倣と単なる猿まねとを区別するのだといい、論考によればその区別の鍵は資質と文体を「知解」しているかどうかにあるのだという。ただ、理想とされたその父と子の類似性の中に、ペトラルカは言葉にできない超越論的な何か(喚起力?)を感じ取ってもいるのだという。ペトラルカの模倣の考え方には、このように微妙に曖昧な部分が含まれているのだ、と。

で、そのあたりに、ペトラルカを信奉する後の世代の文人たちがいさかう遠因があったのだと同論考は考えている。上の喚起力(いわく言い難い何か)の解釈から同論考は、キケロ支持派と折衷支持派の対立は、一つには文体の形式主義の模倣と、知解に立脚した内容主義の模倣との対立にも重ねられる、と論じている。それは同時に、ペトラルカの位置づけ(ペトラルカを弁論の再生者として讃えるか、中世の残滓を留める無骨な人物と見なすか)をめぐる対立ともパラレルだったのではないか、そして、そうした両者の見解を根底で支えているのは、ルネサンス期に台頭する一種の「能力主義」ではなかったか、とも。なにやら実に鮮やかな切り分け・まとめではあるけれど、このあたりの分析のベースとなっているのは、エラスムスの『キケロー派の対話』で描かれた一場面で、いわく「この対話が当時の文人の見解を一定の程度で客観的に反映しているとすれば」(p.77)という前提に立っている。この前提はどう担保されているのかは、この論考内部からはちと不明な気が……。

作者不詳のペトラルカの肖像画
作者不詳のペトラルカの肖像画