「服従」論の古典

ちょっと野暮用で田舎へ。で、少し前から読みかけのスタンレー・ミルグラム『服従の心理』(山形浩生訳、河出文庫)を、移動中の新幹線で読了。「アイヒマン実験」と呼ばれる心理実験の記録と、その理論化を試みた書籍で、原著は74年刊行。巻末の訳者解説によれば、これは新訳。罰が学習にどう影響するかを調査するという名目で、一般参加者を先生役とし、学習者役に電圧を加えさせる(実は学習者が痛がるふりをしているだけなのだが)という実験がなされる。加える電圧は徐々に上がっていくという設定だ。先生役となる参加者の多くは、多少とも倫理的葛藤を覚えたりもするものの、かなりの電圧を加えるところまでエスカレートしてしまう。まさにアーレントが主張した、アイヒマンがごく凡庸な人物で、単に役人仕事をしていたにすぎないという説を後追いするかのような実験結果が出る。アイヒマンはいたるところに、というわけだ。刊行時は衝撃だったという話なのだが、確かにこの前半の実験結果の報告はとても興味深い。被験者の反応とか読むと、こういう実験に参加したら、おそらく自分も……なんて、思わず自分を重ねてみたりしてしまう(苦笑)。ところが続いて理論化という後半部になると、どうも話は微妙な感じになってくる。

ミルグラムの基本的な解釈では、人は自律状態からエージェント状態へとモードチェンジすることで行動と心理が変化し、「権威」に服従するようになるのだとされている。けれども、これだけでは結構荒っぽい議論ではないかしら。「権威」がきちんと問われていない、ということを巻末の訳者解説が述べているけれど、「状態」変化についても同じようなことが言えそうだ。そんなにはっきりとしたモードチェンジがそもそもあるのかどうかも怪しいし、モードとか状態とかといった抽象的な概念では、そこにあるはずの細やかなグラデーションが捉えきれないように思えるし。また、モードチェンジの事前条件、帰結、束縛要因についてそれぞれミルグラムが列挙している事項も、説明としてどこかものたりないように思える。あるいはこれ、集団論・組織論のほうから眺めなおすと面白いかも。サークルなどの社会集団内で顕著だけれど、なんらかの組織に関わって個人の立ち振る舞いを決める際に最も重要な要因となるのは、その集団内での「居場所」(参加の動機付けと参加状態の維持を約束する)の確保と「免責」(メンバーとしての集団的・幻想的な認知に関係する)の有無なような気がするのだが、それらは一般募集の実験への参加のような、散漫な集団への緩い参加においても基本的には有効に思える。だからもしかすると、それらのキータームを精緻化するだけでも、「服従」(だいたいこのタームにしても、より厳密な定義が必要ではないかしら)の現象はある程度説明可能になるかもしれず、オッカムのカミソリではないけれど、たとえば同書が仮定するような「権威の認識」などといった事項立ては不要になっていく気もする。厳密には論点がずれるのかもしれないけれど(苦笑)、なにかこう、集団論、組織論として読み替えるほうがよいのでは、なんてことをしきりに思う読書だった。訳者の解説にあるような、組織に対応できるのは組織、という文言(アイヒマン的な行為に対抗する可能性として)も、そこでこそ生きてこようというもの。

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