アフォーダンスと個の倫理学

河野哲也『善悪は実在するか−−アフォーダンスの倫理学』(講談社選書メチエ、2007)を読む。ギブソンのアフォーダンス理論から倫理学を導くのか……と思って読み始めたが、冒頭ではアフォーダンス理論はどちからというともっぱら反自然主義の批判のために援用されている印象だったので、最初ちょっと引っかかりがあったのだけれど、その後で話は大きく展開していって、なにやらほっとする(笑)。意味や価値は認識する個体の主観にのみ存するのではでなく、環境からアフォードされているのだというアフォーダンスの考え方からすると、善や悪もまた個体にとっての環境からのアフォードだということになり、こうして人間一般といった概念ではなくあくまで個体(個人)を中心に据えた倫理の問題が開かれるというのがその主筋。個人を中心に据え直すというスタンスは同書のまさに中核的なテーゼで(まあ、古くからあるテーゼではあるけれど)、このあたりはなるほどと頷かされる。

で、その個体ベースでの倫理学だけれど、同書ではそれがいわば三段ロケットのように描かれている。まず一段目には他者に対する「共感」がある。これは他者の模倣という形(赤ん坊が親の表情を真似ることなども含めて)で、他者からアフォードされるものだ。けれどもこれだけでは「〜すべし」という強制力がない。そこで働くのが二段目としての互酬性だという。これも人間関係からアフォードされるということなのだろうけれど、当然ながら互酬には復讐という裏の面もあり、両者は表裏一体だ。ま、だからといって「倍返しだ」のインフレルールは不毛にいたると思うのだけれど(笑)。この復讐の論理がエスカレートしていくことを代替する機構として、現状では三段目としての法的秩序による暴力の奪取・占有がある、とされる。いわば道徳の法化という段階だ。著者はこの法化という段階は三段目として唯一の選択肢なのではないとして、これを批判的に見ようとする。他者との関係性に国家などを介入させると、個人はまたたくまに捨象されてしまう。それと対照的に同書で提唱されているのは、個人を重んじる広義の「ケア」の概念を導入して別の可能性を開くという方途だ。

もとより生態的・人為的環境がアフォードする意味や価値は可塑的だとされる。だからこそそういう組み替えもまた可能だということになるわけだ。けれども問題は次の点にあるとされる。人間一般を問題にする、法化された道徳にもとづく見識はあまりに広く受け入れられすぎているために、個人を相手にする意味や価値の創出へと社会が向かっていくことはなかなか実現困難だ。たとえばこんなところにもそれは感じ取れる。素朴な哲学的難題として「なぜ人を殺してはいけないか」という問題があるけれども、これなども、「人」という抽象概念で考えるから行き詰まるのであって、具体的個人が問題になるのなら殺さない理由はいろいろと挙げられる。あのサンデルの講義とかで取り上げられた二択問題(たとえばトロッコで右に行けば一人しか轢かないが、左に行けば五人轢くとき、さああなたならどうする、といった問題)も、状況がもっと具体的であれば問題は複雑化するが、対処法もまた複合化されうる。上の例ならトロッコそのものをなんとか止められないのかとかね。そんなわけで、この個人のもとへ、具体的なものへと問題を差し戻すという考え方は、とても重要だったりする。