カタリ派に終末論はなかった?

これまた実に面白い論考。レイモンド・パウエル「カタリ派終末論の問題」(Raymond A. Powell, The Problem of Cathar Apocalypticism, Koinonia, Vol.14 2004)というもの。カタリ派は10世紀後半から12世紀にかけて南フランスと北イタリアを中心に広がった異端思想で、異端審問の専門化やドミニコ会の成立などを促す契機になった思想潮流だったとされるが、実際のところその教義内容にはかなりの幅があるといい、時代や地域で相当に中身は相当異なっているようで、穏健派から強硬論までいろいろな分派があったとされる。たとえば二元論の考え方自体についても諸派で立場は異なっているという。善悪二つの同等の原理(神)の拮抗は永遠に続き、結果的に悪の原理によって創られた物質世界(現世)も、善の原理による精神世界と同様に永劫的に維持されるとする立場(強硬論)がある一方で、現世は悪しき原理の所産だけれども、それは過渡的なものにすぎないとする立場(穏健派)もあったりする。けれどもここで、前者の強硬論の立場を取ると、逆に終末思想はありえないことになってしまう。また後者の立場においても、物質的な世界の過渡性が引き合いに出されるのはあくまで善の原理によって創られた精神的な世界の永劫性を強調するためだったりするともいう。こうして、一般に終末思想的に彩られているとされてきたカタリ派が、実は終末論を内包していないのではないかという新しい(?)仮説が浮上する。

また、そこから興味深いカタリ派のビジョンが見えてくると論文著者は言う。カタリ派諸派にとって地上世界はそれ自体で地獄もしくは煉獄のようなものとされ、そこに送り込まれた罪人(堕天使)らはそこで弁済を果たして天上世界に戻る(誰が戻れるかとか、いつ戻れるかとかは派によって異なるという)。ということは、「最後の審判」に相当する審判は堕天使が地上世界に送られる前にすでに済まされていることになる。未来ではなく、それはすでにして過去になされてしまっているというわけだ。時間のベクトルが反転する。いきおい、聖書に記された終末論的な預言もまた、カタリ派においては未来のことではなく過去にすでに起きたこと、古代にすでに済んでしまったこととして解釈されるという。そんなわけで、これらコスモロジー的なビジョンや聖書解釈のスタンスなどからも、カタリ派においては終末論は発展しえないと論文著者は論じている。うーむ、なるほどこれは面白い着眼点ではある。とはいえ、現世を地獄・煉獄と捉えるスタンスそのものは、終末論的な心性に裏打ちされたビジョンにほかならず、そうした絶望感を背景とした独特な救済論と見ることもできる。未来の預言を過去へと投射しようとする上のビジョンは、まさにそういうもの、終末論的恐怖を放逐しようとするためのものなのではないかしら、と。ならば、その教義が終末論を含んでいないのはある意味当然ということにも……。でもまあ、全体像がわからないので、このあたりをどう判断してよいかは難しいところ。そもそも論文著者も指摘するように、カタリ派の研究は文献的な制約が大きいといい、その全体像もなかなか掴めないものらしい。カタリ派の史料としてよく引き合いに出されるらしい『秘密の晩餐』も、ボゴミール派に由来するものだったりし(ボゴミール派では教義上、終末論はありえるという)、カタリ派そのものの中身をどれだけ反映しているのかはわからないという。

1209年のカルカソンヌでのカタリ派(アルビジョワ派)追放の図。フランス大年代記からの細密画
1209年のカルカソンヌでのカタリ派(アルビジョワ派)追放の図。フランス大年代記からの細密画