復習:古代の原子論と霊魂論

Die Vorsokratiker 2. Zenon, Empedokles, Anaxagoras, Leukipp, Demokrit
今週は再び田舎で用事。で、ちょうどよいタイミングなので、レクラム文庫の対訳版で古代の原子論ならびに霊魂論をざっと復習する。まずはソクラテス以前の哲学断片集二巻(Die Vorsokratiker 2. Zenon, Empedokles, Anaxagoras, Leukipp, Demokrit, ed. Japp Mansfeld, Reclam, 1986)から、デモクリトスの原子論。そこでは現実世界には不可分の粒子と空虚しかないとされるものの(断片98)、人の感覚はそれを捉えることができず、そこに臆見を交えるがゆえに現象を知覚するのだとされる。粒子はおびただしい数あり、それ自体が滅することはなく、属性をもたず、空虚の中に離散して存在する。で、それが集積して四元素をなす(断片49、断片53など)。元素の違いは空虚と粒子の集積の具合による(断片55など)。こうして「永続」は粒子の側にいわば押し出される格好となり、現象においてはすべてが流転・変化するとされるわけだ。で、魂はというと、これもやはり第一の不可分の物体(球体)で、その極小性および形相ゆえに運動可能なもの、静止していられないよう(火のように)できているものと定義され(断片82、83)、また熱と感覚に与り(ヌースとともに)、呼吸を通じて内部に取り込まれ留め置かれるとされる(断片85、86)。このあたりはなかなか独特で面白い。いずれにしてもデモクリトスの場合、魂は原子の一種として扱われ、それゆえに滅することがないと担保されていることが確認できる。

Briefe, Sprueche, Werkfragmente一方、少し時代が下ったエピクロスもやはり同様だ。書簡・教説集(Briefe, Sprueche, Werkfragmente, ubs. Hans-Wolfgang Krautz, Reclam, 1980)でもとりわけ重要な「ヘロドトス宛の手紙」によれば、世界には基本的に実体(物質世界)と非実体(空虚)しかなく(40節)、実体は不変の原子から成るとされる(41節)。それらは集積と離散を繰り返すけれどもそれら自身は不滅だという(42節)。霊魂もまた極小の物体であるとされ(63節)、同じく集積と離散が可能なものだ(65節)。というわけで、霊魂そのものは極小の物体としてそれ自体は不変だけれど、集積したそれは離散可能だということで、霊魂を非物体とする議論(エピクロスは67節で、空虚をのぞき非物体なるものはないと反論している)での霊魂の不滅とはだいぶ趣が異なる。少なくとも離散してしまった後の微細な霊魂が、集積していた間のなんらかの固有性を温存しえないのは、明言されてはいないもののほぼ明らかだ。可滅論の系譜として見る場合、このあたりを後代の霊魂可滅論がどう取り込み、どう修正するのかが当然ながら肝となるわけだ。