ビュリダンの霊魂論から

John Buridan: Portrait of a Fourteenth-Century Arts Master (Publications in Medieval Studies)ジャン・ビュリダン(14世紀)に関するジャック・ズプコの研究書(Jack Zupko, John Buridan: Portrait of a Fourteenth-Century Arts Master , University of Notre Dame Press, 2003)を飛び飛びに眺めているところ。とりあえず個人的には、心身問題というか霊魂論についてまとめられている11章にとりわけ興味が湧く。というわけで、その概説を簡単にまとめておこう。著者によるとビュリダンは基本的に動物・植物の魂と人間の魂とを分けて考え、前者は物質の集合体で生物学的機能で定義される延長的な力をもち、可滅的なものだとされている。対する後者は非物質的・不滅的・創造されたもので、数的には多であるとされる。ビュリダンにおいては、動物や植物の魂は身体全体に広がっており、各器官での分化については潜在性(可能態)の近接・遠隔という議論で説明されているという。つまりこういうことだ。動物における感覚的機能は特定の器官で発現しているわけだけれども、機能をもたらしている魂自体は全体に広がっているため、たとえば動物の任意の各部(足でもなんでも)に視覚や聴覚の「遠隔的な」可能性があるのだという。ただしその器官がそれらの機能を「近接的な」可能性へと高める配置になっていないため、発現しないのだというわけだ。また、動植物の魂というのは同一であり、植物的魂と感覚的魂の区別などは言葉の問題にすぎないと、いかにも唯名論的な立場を取ってもいる。このあたりもなかなか興味深い。

しかしながらもっと興味深いのはやはり人間霊魂に関する話。非物質的で分割不可能なもの(すなわち魂)が、物質的で分割可能なもの(すなわち肉体)に備わる・宿るとはどういうことか、それをビュリダンはどう考えているのか……。まず魂は肉体に、外接的(circumscriptive:境界画定的)にではなく、規定的(definitive:内充的)に宿るのだという。つまり「全体に全体が、部分に部分が」宿るのではなく、「全体に全体が、部分にも全体が」宿るというわけだ。しかしながら現実問題として、知性のような分割不可能なものが分割可能な基体にそのような形で宿ることは不可能だということにもなる。こうしてアヴェロエスは、知性の非物質的な部分は身体に宿ってはいないと結論づけることになった。一方のビュリダンはというと、知的魂を超越論的な実体とするアヴェロエス的な結論を斥け、知性的魂はあくまで人間の身体に、全体が部分に宿るという形で宿るのだという立場にこだわり続ける。上の規定的・内充的な内在は非通約的・無理的(non-commensurable)な関係とも言い換えられている。ビュリダンは当然ながら様々な異論への論理学的な反論も用意してはいる。ただ、そこから先の具体的説明を、ビュリダンは神学の側へと差し戻してしまう。非通約的・無理的な内在は、自然学が論証的に説明しうることではないとして、それを神の奇跡に帰着させてしまうのだ。哲学者としての降伏?いやいや、少なくともこの著者は、ビュリダンの「説明放棄」は限定的なものだとして、アウグスティヌスが奇跡について述べた言葉を挙げている。いわく「奇跡的な事象は自然に反して起きるのではなく、自然について知られていることに反して起きるのである」。無理的な内在は自然に反するのではなく、限界とされているのはあくまでそれを自然学の論述で証すことなのだ、と……。