ウルバヌス二世の演説

14世紀の『ゴドフロワ・ド・ブイヨン物語』から、ウルバヌス二世を描いた挿絵。
14世紀の『ゴドフロワ・ド・ブイヨン物語』から、ウルバヌス二世を描いた挿絵。
これはアプローチ的に興味深い一篇かも。ゲオルク・シュトラーク「クレルモンでのウルバヌス二世の説教と教皇の演説の伝統」(Georg Strack, The Sermon of Urban II in Clermont and the Tradition of Papal Oratory, Medieval Sermon Studies, Vol.56, 2012)(PDFはこちら)。十字軍の発端は1095年にウルバヌス二世が行った演説だとされているけれど、テキストそのものは残っておらず、後世の研究者たちによるその再構成の試みがあるだけだという話は結構有名だと思う。でもその際に使われる年代記作家のテキストについては、個人的にまったく知らなかった(苦笑)。この論考ではその主な3つのテキストを、ウルバヌス二世のほかの説教の記録や、グレゴリウス七世(ほぼ前任者)の類似のテキストなどと比較・検討しようというのが主旨。3つのテキストというのは、(1)シャルトルのフーシェ、(2)修道士ロベール、(3)ドルのボードリによるそれぞれの年代記。ウルバヌス二世の演説は、これらのテキストでかなり違った風に描かれているようだ。論文著者の整理によると、(1)での教皇の演説はさほどレトリックに凝らない淡々とした演説の形を取り、教会会議における通常の決定事項の宣言として十字軍の呼びかけがなされているという。それに反して(2)はレトリカルに洗練された好戦的演説で、聴衆もドラマチックな反応を示した(聴衆はフランク族系の人々で、ラテン語での説教なのに)とされる。(3)は、説教としてのレトリカルな構造をむしろ前面に出した演説とされ、一方で聴衆の反応も様々だったという。全体的に(2)と(3)は年代記としてのスタイルを洗練しようという年代記作家の意図が強く出ているという。

で、これらおのおのが何らかの伝統の上に立っているということが、ウルバヌス本人やグレゴリウス七世のほかの説教などからわかるのだという。両者の説教には(1)と同じような構造のものが見受けられるらしく、それらは11世紀後半から12世紀前半にかけて多くの教皇が行った、免属大修道院(教皇直轄の修道院)の正当化のための演説の長い伝統を踏まえたものなのだという。一方で教皇の伝記においては、教皇が説教の形で演説を行うというモチーフがよく使われていて、(3)などはそうした伝統に則ったものだと考えられるらしい。(2)もまた、1080年代にハインリヒ四世との叙任権論争が再燃した際、グレゴリウス七世が行った類似の演説があるという(ランゲリウスの『アンセルムスの生涯』にもとづく)。同じ演説の報告が、依って立つ伝統・モデルによっていわば「変奏」されていく様は、なんだかとても興味をそそる……(笑)。