フーコーと統治

フーコーの闘争―〈統治する主体〉の誕生このところ元「現代」思想系の研究書がいろいろ出ていて少しばかり活況を呈しているみたいで、個人的にもちょっと読書の純粋な楽しみが久々に広がっている気がする(笑)。それらのうちの一つ、箱田徹『フーコーの闘争―〈統治する主体〉の誕生』(慶應義塾大学出版会、2013)を読了したところ。ミシェル・フーコーの思想的歩みを、統治概念を軸に整理し、その全体像を刷新しようという試み。80年代ごろの紹介のされかたとは、もはや一味も二味も違う。フーコーもつまみ食い程度しか見ていない身としては(苦笑)、こういう整理はとてもありがたい。で、その肝となる部分はというと、フーコーが権力と抵抗といった二元論ではなしに、両者が不可分に表裏一体化しているという一元論を採っているのではないかというテーゼだ。初期の権力論においてすでに、権力が遍在するならばそこから「逃れる」可能性を議論するのは無意味で、そこで問われるべきは権力に人々がどういう関係を結んでいるかだということとされる。権力があるところ、抵抗は常に付随する。後にフーコーのテーマとして浮上する「性の科学」(著者はこれを、告解させ記録させる技術と知の複合体と読み解く)と「エロスの技法」(こちらは自己への配慮とイコールだ)も同様に分かちがたく結びついているといい、またそれらは性や快楽の問題に限定されずにもっと一般的な射程で捉えるべきものだとされている。それらの発展形となるのが「司牧神学」と「対抗導き」の概念だという。司牧の権力もまた統治の一つの政治形態だといい、さらに宗教改革および30年戦争以降、人を単位とする統治が世俗化して国家の統治と結びついていく……。

同書では、両大戦間に生まれた新自由主義の積極的介入策についての解釈や、イラン革命をめぐるフーコーの立場などについても同じ文脈から取り上げられている。また後期フーコーの主体の成立議論の発展、さらには晩年のパレーシア論にいたるまで、フーコーの思索的な歩みをひたすらぶれることなく「統治」問題の視点から一元的に整理してみせている。「統治する者と統治されるものとのあいだの統治的な関係は、統治者が被治者を思いのままに導く「一方的な」ものではない。そこには、導く側と導かれる側の司牧的なゲームが存在する。このとき被治者の側が、統治者の導きに反発して、別の導きを得ることや、己を導くことが<対抗導き>であるのだ」(p.142)。ちょうどこのところの特定秘密保護法案をめぐる動きを見聞きして、こうした文章にとりわけ共鳴する思いだった。その意味でもなかなかタイムリーな読書だったと思う。