雑感:古典化する旧「現代」思想


前回のアーティクルとの関連で旧「現代」思想話をもう一つ。今度はデリダについてだけれど、これも先のフーコー論に似て、その思想世界の一端を見通しよくしてくれる小著を読了した。パトリック・ロレド『ジャック・デリダ−−動物性の政治と倫理』(Patrick Llored, Jacques Derrida : Politique et éthique de l’animalité, Sils Maria, 2012)。もともとこれは「5つのコンセプト」という叢書のシリーズ(入門書として企画されているみたいだ)らしく、デリダの動物性の議論に関する5つのコンセプトを挙げて、その思想の全体像をたぐり寄せるという、ちょっとした荒技のような妙味を感じさせる。西欧における人間の象徴世界の存立基盤をなしているのは、「動物」もしくは「動物的なもの」、あるいは「動物性」を放逐・排除するプロセスであり、そうした一種の「暴力」を通じてこそ、人は主体として君臨し、法とモラルの世界をわがものにできる……そのことをデリダは様々に変奏し暴いていくのだというわけだが、全体の記述は良い意味でストレートで、デリダの研究書によくある衒いや迷いがあまり感じられない。それだけにとても「見通しの利く」概説書になっている気がする。こうした多少とも「見通しのよい」概説書が出るというのは、それだけ多くの研究が蓄積されてきたことの現れなのだろうけど、それだけ旧「現代」思想が古典化してきたということなのかもしれない。

「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へでも、ある意味それはとても喜ばしいことではある。なにしろ、道なき道のようにも見えた膨大なテキストの森を、どこぞの高台から俯瞰することがようやく可能になってきたということだから。けれども、そうした思想をもっと同時代的でヴィヴィッドなものとして受け止めざるを得なかった旧世代(個人的には私もそちら側なんだよなあ)からすると、そんな迷走体験から高台へと、なかなか自覚的にすんなりと移動することはむずかしい(かな?苦笑)。最近出た山内志朗『「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』(青土社、2013)を読み始めたところなのだけれど、これなども、そうした抵抗感のようなものを如実に感じさせる。森の中をあえて進もうとしてきた著者の気概そのものが文章に滲んでいて、どこか共感と覚えると同時に、改めてその苦行の一端(著者の苦行は半端ではなかろう……)をまざまざと見る思いがして辛いものがないでもない……(同書の中身についてのメモなどはまた改めて)。