スコラ的論争形式の略史

ヨハン・フォン・アルムスハイムによる1483年の木版画。キリスト教とユダヤ教の神学者たちの論争を描いている
ヨハン・フォン・アルムスハイムによる1483年の木版画。キリスト教とユダヤ教の神学者たちの論争を描いている
アレックス・ノヴィコフ「スコラ的論争の文化史に向けて」(Alex J. Novikoff, Toward a Cultural History of Scholastic Disputation, The American Historical Review, vol. 117(2), 2012)という論文を読む。スコラ的な論争形式の成立から発展、隣接領域などを含んだ拡大などを、文化史的な見地を絡めて捉えようという意欲作。なかなか面白い。というわけで、全体の流れをまとめておこう。そこでは論争形式の発展を5つのステップで描き出そうとしている。まず一つめは成立期だ。スコラ的な論争の形式はもともと、古代からの対話篇・雄弁術の伝統がキリスト教世界に受け継がれ(アウグスティヌス、ボエティウスなど)ていたものを、11世紀末から12世紀初頭にかけて、アンセルムスが修道院内での教育のための方法として整備したのが始まりという。アンセルムスの師匠でもあったランフランクスその他にもそうした方法を用いていた人々はいたようなのだが、対話形式での文章の多さなどを根拠に、論文著者はアンセルムスに転換点を見ている。第二のステップは発展期だ。対話形式はアンセルムの周辺から広がり、11世紀から12世紀にかけて一気に花開くことになり、多くの文献がその形式で書かれるようになる。神学的論争にとどまらず、北イタリアやフランスなどで盛んになったローマ法の研究においても活用されることになる。第三のステップとしては、アリストテレスの新論理学の翻訳が進んだことが挙げられている。これが12世紀半ばにかけてスコラ的な論争形式に多大な影響を及ぼす。アリストテレスの重要性をいち早く見出した人々には、バルシャムのアダム、アレクサンダー・ネッカム、ソールズベリーのジョンなどがいた。論文著者によると、12世紀において修道院神学者とスコラ的神学者を分けることになるのが、この論争の実践にあったという。それは日々の自由学芸の訓練の中心をなしていた、というわけだ。パリ大学の正式な成立前(成立は1215年)にあたる12世紀末には、すでに講義室が論争の場となるなど、論争が活用される場は十分に整えられていき、大学成立後はいっそうの制度化が図られるようになる(自由討論の創設など)。これが第四のステップ。

さらにその論争形式・対話形式は、教会がユダヤ教などの異教に対峙する際にも大いに活用されたともいう(1240年の、通称「タルムード裁判」ことパリでの公開討論会など)。これが第五のステップだ。裁判の結果タルムードは焚書となるが、これが教皇庁側からユダヤ教側への大規模な攻勢の発端となり、その先頭に立つことになったのがドミニコ会だというわけだ。そのための手段はもちろん論争だ……。一方で著者は、そうした対話や論争の考え方はより広い文化的文脈に影響を与えていて、その一つが音楽におけるポリフォニーの開花だと指摘している。12世紀末のパリという成立時期・場所も同じなら、モテットなどの内実(まさしく声による対話だ)もまさにそのことを示しているのではないかという。この、音楽との絡みという話はごくわずかに触れられているだけなのだけれど、このあたり、もっと深めることができそうなテーマのようにも思われる。