普遍論争は今なお

現代普遍論争入門 (現代哲学への招待 Great Works)普遍論争というシロモノはとかく過去のものと思われがちだけれど、実は中世だけにとどまるものではなく、その形而上学的な議論は分析哲学に舞台を移して(議論の中身も変えて)今だに続いており、決着には至っていない……そのことを改めて教えてくれる好著、それがアームストロング『現代普遍論争入門 (現代哲学への招待 Great Works)』(秋葉剛史訳、春秋社)だ。この翻訳書が貴重なのは、邦語でのトロープ理論のまとまった解説が読めるのはおそらくこれが初めてではないかと思われるから。同書によると、トロープ(つまり実在として認めたられた属性のことだ)の考え方も一枚岩ではないようで、個人的にたまに目にするトロープの束説(実体といわれるものが、様々なトロープの束からできているという説)などはトロープ論全体の一部でしかないらしい。同書では、現代的な議論のスタンスとして6つの立場を分け、順にそれらを一つずつめぐり、それぞれが抱える利点や問題点を指摘し、どれがコスト・ベネフィット的に効率が良いかを探っていく。この、効率性で判断しようというあたりはいかにもプラグマティックだ。いずれの論も長短があるため、そうでもしないと百家争鳴的な状況に決着をつける筋道(それはまだまだ先のことだとされる)を見いだせない、というわけなのだろう。ここでの6つの立場というのは、(1)自然なクラス説、(2)類似性説、(3)普遍者説、(4)トロープ版自然クラス説、(5)トロープ版類似性説、(6)トロープ版普遍者説。それぞれの中身はここでは割愛するとして、最初の(1)と(2)が純粋な唯名論、残りは少なくとも個物とは別に性質の実在を認めているという点で実在論に括られている。また(1)の自然クラス説では事物は比較上構造を欠いたものとして扱うという意味で「塊」になぞらえ、なんらかの形で性質や関係の存在を認めるものを「多層ケーキ」になぞらえているのも興味深い。で、説明原理の効率性という意味では後者の多層ケーキ説に軍配が上がりそうだ(と著者は言う)。

で、著者が最も効率がよいと考えるのは、一連の各種トロープ理論ではなく、性質や関係などの属性を普遍者と考え、実体と属性という成る昔ながらのペアを基本に据える(3)の一バージョンだ。これに、普遍から個別への例化を考える手がかりとして事態(いわゆる複合命題の存在者を認めるというもの)の概念を組み込むと、トロープ以上にコストが少なくなるということらしい。各議論で言われる「コスト」は、それぞれにいろいろあるようで、この実体-属性説でのその最たるものは例化の無限後退のリスクだとされる。例化が事態によって行われるとするなら、その例化の事態もまた普遍者なのだから例化されなくてはならなず、再び例化の関係が事態によって例化されることになり、かくして無限後退が起きるように見える、というわけだ。けれども著者は、最初の例化が事態として分析されたら、それ以上の分析は必要ないのではないかという。最初の例化が真であれば、次々に新たな事態を対応させてもどれも真になるのは明らかなので、そうした新たな事態を対応させるのは無意味ではないか、というわけだ。さもないと(と著者は言う)、どの議論においても似たような状況になってしまい(自然クラスの成員関係を成員関係で、類似性論ならその類似性関係を類似性関係で分析するようなことになる、と)、あらゆる説が責め苦を負うというのだ。ここから翻って、それぞれの説には、それ以上分析として踏み込めない最初の原初的な部分があることも改めてわかる。さらには、この実体-属性での普遍者説の行く手にもまだまだ問題が横たわっているのだそうで(普遍者の間の厳密でない類似性を分析しきれるかどうかとか、自然法則の本性の問題など)、まだこのゲームは中盤戦が始まったばかりだと著者は述べている。うーむ、改めて思う……普遍論争おそるべし!いずれにせよ個人的には、アラン・ド・リベラがリミニのグレゴリウスなどについてトロープ論がらみで論じていた著書などを再読したくなった。今度はもう少し、理解が進むかしら?