ライプニッツ論と中世

ライプニッツのモナド論とその射程個人論集という体裁の酒井潔『ライプニッツのモナド論とその射程』(知泉書館、2013)を読み始めたところ。個人的にとりわけ興味があるのは、中世との関連について扱った冒頭のいくつかの論考。最初の論考(第一章)は、ラティオ(概念)とシグヌム(記号)についての中世の議論をまとめ、それに対するライプニッツの立場を際立たせるというもの。著者は中世の議論として、トマスを中心とする「レス(事物)・ラティオ(概念)・ノーメン(名)」という理解枠と、アウグスティヌスからの伝統とされる(山田晶説)「レス・シグヌム(記号)」の理解枠の二つを取り上げている。前者は、レスの理解をラティオが媒介し、それに名が与えられるという構図。後者では、神そのものを指す真のレス(「大文字のレス」)の残余(つまり被造物全般)がすべてシグヌムとされる。媒介するラティオは不要とされ、可感的存在者のいっさいが記号、つまり神の記号、神の内容として直接表示されるという構図だ。で、ライプニッツはとりわけこの後者の理解枠に盛んに言及しているのだという。一方でラティオを用いた理解枠も見いだせるというのだけれど、傾向として、ライプニッツにおいてはシグヌム論のほうから、「可感的諸事物が普遍への言及なしに、そのままで神の記号=言葉として承認される」、つまりは現実世界が学知の探求の対象になるというスタンスが出てくるという。第二の論考(第二章)ではクザーヌスとの比較が取り上げられるのだけれど、こちらでは、クザーヌスの言う「縮限された(contractus)普遍」としての個物の議論(たとえば点や線といった普遍は、個物である物体の上でのみ現実的となる)と、ライプニッツにおいておそらくは上のシグヌム論から導かれた、「表出としての世界」とが重ねられている。結果的にクザーヌスが(ライプニッツもだが)、世界そのものを学知の探求対象とした先駆的存在と見なされ、中世と袂を分かつ革新者と位置づけられる。

一つ些末ながら個人的に引っかかった点。この第二章の末尾には、ヘルベルト・ベーダーの説として、クザーヌスにおいて無限(すなわち神)はみずからを媒介し示すのだが、それは自然的理性に対してであり、比量的とされる悟性は神学の側から遠ざけられ、自然的理性は「聖なる無知」として信仰に結びつけられる、とある。で、ここにオッカムの影響がある、とも。比量的悟性というのはおそらくスペキエス(可感的形象)を能力の側から見た場合のことだろうと思うけれど、うーん、確かにオッカムのスペキエス排除の議論を、クザーヌスが念頭に置いていないとも限らないが、クザーヌスとオッカムについてそれ以上のことをここで含意しているのかどうか、ちょっと不明だ。限られたものしか読んでいないけれど、両者のテキスト面での雰囲気的違いからすると、なにやらいきなり驚かされる一文。クザーヌスとオッカムか、少し調べてみることにしよう。