denominatio extrinseca


スアレスにも出てくる「denominatio extrinseca」。先の山内志朗『「誤読」の哲学』では「外的名称規定」と訳され、対象(オブジェクト)をめぐる探求の途上で重要な位置を占めていた。けれども、これは主体(サブジェクト)の問題においても要の一つとなっているらしい……。前半の途中で投げ出してしまっていたアラン・ド・リベラ『主体の考古学II – 同一化の探求』(Alain de Libera, La quête de l’identité (Archéologie du Sujet II), Vrin, 2008)の後半部分に、そのあたりを追った議論があることを最近改めて知り、そんなわけでとりあえずざっと読んでみた。この『主体の考古学』第二巻は、一巻目とは趣を異にし、近世や近代と中世を自在に行きつ戻りつしながらリベラお得意の図式化などが多用されるため、なかなか読むのがしんどい。ちゃんとした理解になっていない感じはするが、とりあえず大枠だけメモしておこう。denominatioとは呼称のことだが、ある対象物を述語づけるときに、その述語が本質・内在に立脚している場合と、外部的事象に立脚している場合に分け、前者をdenominatio formali(形相にもとづく名づけ)、後者をdenominatio extrinseca(外的事象にもとづく名づけ)と称している(extrinsecaは、その対象物に本質的に属していないという意味で、付帯的なもの、偶有的なものを意味したりもする)。当然ながらこの概念にも変遷の歴史がある。が、リベラはそれを直線的でない形で示そうとしている。それほどまでに複雑に錯綜しているということ……なのかしら。

たとえば、「ある物体が熱い」と言う場合、それはその物体を形相的に名づけたことになり、一方で「ある物体は熱くなった」と言う場合、それは外的事象にもとづいて名づけたことになる、とされる。こうした「形相にもとづく」と「外的事象にもとづく」の違いの議論は、たとえばヘルヴァエウス・ナタリス(14世紀のドミニコ会士)の「全論理学大全(Summa Totius Logicae)に見られるといい、リベラによると、そこでの区分では、作用を及ぼす側か、作用を受ける側かの区分に重ねられているといい、さらには作用が内発的・自律的か、作用が推移的・他動的かの違い、あるいは形相因・作用因の違いにも重ねられているという。『「誤読」の哲学』でも指摘されていたが、「外的事象にもとづく」とされる場合の「主体」(上の例なら「ある物体」)は、作用を被る対象としての位置関係にあるという意味で、現行の主体概念との逆転が見られるのが特徴的だ。で、少し後世のカエタヌス(16世紀初頭のドミニコ会士)になると、思考の対象が現実的・潜在的に「外的事象にもとづいて」知解可能であると「名づけられる」ための条件が規定される。ここから、対象が思考となる契機がそのまま「外的事象にもとづく名づけ」とイコールになっていくらしいのだが、それはたとえばデカルトの『省察』への反論で知られる(寡聞にして知らなかったが)ヨハネス・カテルスなどの議論などに見られるらしい。そこでは、「観念になる」とは、知解に対象として入ること、対象という形で知解の作用を終わらせることとされる。これなどは、スアレスの「概念」の区別にも重なるスタンスだ。「外的事象にもとづく名づけ」は、その後も意味の場を拡げるようで、18世紀のサミュエル・クラークやトマス・リードにまで受け継がれ、属性の理解や知覚対象にまで拡大されていくのだという……。

主体の考古学という同書あるいは同シリーズの全体からすると、この概念の変遷を追うだけではまだ道半ばということで、ここからいかにして思考の主体・思考する主体が現れてくるのかが問題となっていくらしいのだけれど、それは続くあと二巻(と宣言されている)に委ねられる。うーん、なかなか壮大な計画ではあるけれど、時代を縦横に行き来するこの記述スタイルも、やはりこのまま維持されていくのかしら?(苦笑)