動物と肉と天上世界

ジョイス・ソールズベリー「動物は天国に行くか−−天上の人間例外主義を観想する中世の哲学者たち」(Joyce E. Salisbury, Do Animals Go to Heaven? Medieval Philosophers Contemplate Heavenly Human Exceptionalism, Athens Journal of Humanities & Arts, 2014)という小論を読む。キリスト教は長い間、動物には理性がないとして救済の対象から外してきたわけだけれど、その考え方自体は実は一枚岩ではなく、意外に豊かなニュアンスに富んでいるらしい。その多様な議論について大まかな見取り図を示してくれているのが同論考だ。救済を人間のみとするとする立場は、アウグスティヌスをはじめとし、きわめて長く継承されてきた。けれども、たとえば中世盛期などには、そのためにいろいろな考察が巡らされることにもなった。たとえば羊が狼を見て逃げるという現象について、羊の反応が理性的な思考ではないことを示すべく、「推測(estimativa)」という第六感を仮定したり、内的感覚の議論が追加されたりもしたという(このあたりはアヴィセンナなどがもとになっているらしい)。動物に魂を認めつつも理性を欠いているとするよりも、端的に動物には魂がないとするほうが、たとえば幼児や狂人の救済との矛盾が少ないとされたりもした。天上世界には理性的魂をもった人間しかいない、というわけだ。

けれども、と論文著者は言う。初期のキリスト教においては事情は少し違っていて、天国には、地上世界の肉体とは違う精神的な肉体を纏ってもっといろいろなものが住んでいるとされていたのだという。かくしてそれは復活後の肉体がどのようなものかという議論を促した(代表的なところとして、オリゲネス、キュリロスのほか、ヒエロニムス、テルトゥリアヌスなどのそれぞれの論が簡単に挙げられている)。13世紀になると、地上世界の動物と人間との関わりが問題とされ、人間が動物の肉を食することが、動物が天上世界に赴く方途であるという考えすら生まれてくるのだとか。さらには、動物が分解し消費した人間の肉が、復活の日に再び集められてもとの肉体を再構成するという説もあったといい、11世紀のトルチェッロの聖堂には、動物たちがかつて食べた人間の身体部分を、復活の日に吐きもどす場面の絵があるのだという。

天に動物が住まうかどうかは、さらに天上世界をどのようなものとして描くかにも関係してくる問題だという。初期キリスト教では天上世界は都市国家として思い描かれていた。一方でより世俗的なイメージでは楽園として描かれたりもし、そうなるとそこに住まう木々や動物たちが必要となってくる。かくして「動物に魂はない」とする支配的な知識階級の見識と、世俗的な享楽を欠いた天国を思い浮かべることができない大衆的な曖昧な見識との間の溝が広がっていく。かくして中世においては、天上世界を地上の完成形と見、あらゆる生き物が変容を遂げて相互に連関し、改めて住まうといったヴィジョンが登場する。つまりは初期キリスト教の見方が形を変えて再浮上したということだ。なるほど、確かに動物をめぐる諸説、あるいはイメージャリーはいろいろありそうで興味は尽きない。

トルチェッロ聖堂のモザイク画。わかりにくいが、おそらく上から二段目の右端が動物が吐いている描写。
トルチェッロ聖堂のモザイク画。わかりにくいが、おそらく上から二段目の右端が動物が吐いている描写(たぶん)