ヒュームへと向かう勾配

確率の出現イアン・ハッキング『確率の出現』(広田すみれほか訳、慶應義塾大学出版会)をとりあえず通読。うーん、個人的にはちょっとノレない感じの訳文で結構苦労したが(続いて読み始めた知の歴史学』(出口康夫ほか訳、岩波書店)がとてもこなれていることを考えると、なにやら複雑な気分……)、中身はなかなか興味深い。確率の概念がいかに登場したかという問題を扱うだけに、その前史として消えていった別概念とか、競合するパラレルな議論のようなものがふんだんに取り上げられるのだろう……かなと予想していたのだけれど、個人的には確率概念の成立そのものにまつわる部分(同書の後半)よりも、その前史に関係する部分(前半)がいっそう興味深かった(笑)。キータームの一つをなす「蓋然性」(probable)という言葉はもともと、先行する書物の権威による学説を指す言葉だったという。これが転換していくのがルネサンス以降とされるわけだけれど、当時(パラケルススなどが挙げられている)、先行する書物から客観敵な観察与件へとただちにシフトしたわけではもちろんなく、別の「書物」、すなわち自然ないしコスモスを一種の「内的証拠」(外部の権威の証言ではなしに)として読むという営為に取って代わられたのだった、とハッキングは指摘する。その際に活用されたのが、低級科学とされた錬金術や占星術で用いらていれた「しるし」の理論で、パラケルススなどが取り上げられている。で、「しるし」の理論と蓋然性の議論とが結びつく結節点として挙げられているのがガッサンディだ。これが帰納についての懐疑的問題の幕開けをなす。ガッサンディはセクストス・エンピリコスの研究を通じて懐疑論を深め、経験が未来を保証するものではないというヒュームのテーゼの先駆けをなしていく……。このあたりの前史の話は、最後の章で再び取り上げられる。文献の権威ではない「しるし」が証拠として蓋然性を支えるようになったことと、帰納についての懐疑が取り沙汰されるようになったこととの間には、まだ溝がある。ハッキングはそこに、因果性(アリストテレスに帰されるような原因-結果の関係性)が臆見(低級科学の要素であった、しるしにもとづく推論でしかないもの)へと格下げされる必要があったとみる。つまりそこでは、知をめぐる認識論的な一大変化が起きていたとうわけなのだ。なるほど、けれども、ではそれはいかにして生じたのかという疑問が残る。

知の歴史学『知の歴史学』の第一章でハッキングは、帰納についての懐疑的問題が定式化される前提条件とは何だったのかに触れ、メアリー・ブーヴィーの説として、一つの大きな要因として複式簿記と「商業取引」による世界(の富)の抽象化(簿記に記されるような粒子的事実へと世界を還元すること)を挙げている。うーむ、それはずいぶんいきなりな印象もないではない(笑)。本人もやや誇張していることを認めているようだけれど、いずれにしても(上の「しるし」の問題もそうだが)、このあたりはもっと具体的で緻密な検証がなされてほしい気がする。というか、すでに他の研究でなされているはずで、そういったところを少なからず見ていきたいと思う次第だ。