ドゥルーズと権力論

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)空き時間読書として読んでいた國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)』、岩波書店、2013)。これはドゥルーズの全体像を見通すためのいわば新しいスタンダードな概説・入門書かもしれない。年頭に取り上げた千葉雅也本、山森裕毅本などとも一部オーバーラップしているけれど(前半の、カント論、ヒューム論を通じて超越論的経験論を論じているあたりとか、プルーストのシーニュをめぐる一種の教育論のあたりなど)、そこから先のガタリとの協働作業の位置づけ(教育論から出てきたある種の限界を突き破るためだとされる)や、後半のハイライトとなるドゥルーズ流フーコー論がらみの「権力」をめぐる問題などは、やや冗長ながらも(前提となるフロイトやラカン、フーコーなどを経るからなのだけれど、議論のためにはそれらは避けて通れない)十分に刺激的なもの。とくに最後の、ドゥルーズの欲望を軸に据えた権力発生論はひときわ興味深い。たとえばこんな一節。「民衆の欲望のアレンジメントは、まさしく様々な要因によって決定されているのであって、「自然な」ものでも「自発的な」ものでもない。ならば。或る特定の欲望のアレンジメントがあって、それが特定の権力様式を発生させる、と考えねばならない」(p.215)。「身体刑を見に来る民衆は、処刑場に来ることを強いられているのではない。規律訓練における監視に従う労働者や生徒や兵士は、従うことを強いられているのではない。彼らは、そのように行為したい、という欲望を抱いている。欲望のアレンジメントという考え方は、その欲望の発生を明らかにするための視座を提供するものだ。権力の概念は、そうした発生過程の結果−−「欲望のアレンジメントの先端」−−しか扱えない」(p.220)。いかにして権力は人にしかじかの行為を「させる」のかという問題は、もちろん容易には答えのでない問題だ。これにドゥルーズは、人にそういう行為を望ませるような微細な欲望の処理パターン、すなわち欲望のアレンジメントによる、との解答を寄せているのだという。規律訓練に人が従うのは、「取り残されたくない」という欲望の在り方が(そう規定すること、つまりアレンジメントによって)社会的に浸透しているからだ、というわけだ。ならばそのアレンジメントこそが改めて問い直されなくてはならないはずで、なるほどこの権力論への欲望論からのアプローチという部分はもっと深められてしかるべきテーマであるように見える。最近の新しいドゥルーズ像には、なにやら時代的な空気の先取りでもあるかのように、ある種まったりと保守化していくような思想的イメージが纏わりついているようにも見えてしまうけれど(良し悪しは別として)、そこにまた別の揺さぶりをかけるような読み方ができないものだろうかというようなことを、そうした議論からついぞ夢想してしまう。