怪物の「素」?

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)ほぼ1ヵ月ほど前だけれど、英国のロイヤル・ナショナル・シアターのパブリックビューイングを六本木の映画館で観た。作品は『フランケンシュタイン』(ダニー・ボイル演出)。ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーが日替わりでフランケンシュタインと怪物とを演じるというもので、なかなか興味深いものだった。観たのはカンバーバッチがフランケンシュタイン、ミラーが怪物のバージョン。で、劇中、フランケンシュタインが、自分はパラケルススやカルダーノで医学を学んだのだ、みたいな台詞があって(記憶違いになれけば、だが)、おお〜と盛り上がった。一方でシェリーの原作にそんな台詞あったのかしらと思い、最近になって光文社刊の小林章夫訳『フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)』をチェックしてみた。おお、なるほどフランケンシュタインの回想の部分に、(カルダーノこそなかったけれど)アグリッパやパラケルスス、そしてアルベルトゥス・マグヌスなどの名前がちゃんと出ている。もちろんそれらは古い学問ということで一蹴されてはいるのだけれど、間違いなく同小説の着想源になっていそうだという点が感慨深い。19世紀は、どうやら中世からルネサンスについての様々な「神話」が形成されていく時代らしいし……。

パラケルススと魔術的ルネサンス (bibliotheca hermetica 叢書)せっかくだからというわけで、菊地原洋平『パラケルススと魔術的ルネサンス (bibliotheca hermetica 叢書)』(勁草書房、2013)を読み始める。まだ前半のみだけれど、これもまた刺激的で面白い。雑多な感想(というか疑問というか)を綴っておこう。本草学について論じている第二章では、パラケルススの独自の議論として次のような点が挙げられている。まずパラケルススは、植物の効能を列挙するだけの同時代の本草書類に満足できず、植物がもつ見えない効能を純化し取り出すことに腐心するのだという。で、その抽出される効能をクィンタ・エッセンティアと称しているのだという。で、それはどうやら伝統的な第五元素、第五精髄(同じくクィンタ・エッセンティアと表記されるものだが)とは異なるものとされている(生命の本質なのだかとか)。このあたり、従来のクィンタ・エッセンティアとどう違うのかという説明は今一つ収まりが悪いのではないか、と。それほどの大きな断絶が見当たらない気もするのだが……。また本草書の伝統への反発という流れも、パラケルススだけに限定されるものでもなさそうな印象なのだけれど、実際のところはどうなのかしら、と。……とこう記してみて、ああ、でも確かにパラケルススを特異点としてフォーカスしなければ、そうした伝統からの乖離といった問題はあまりよく見えてこないのかもしれないな、という気もしてきた(苦笑)。元素について扱った第三章では、従来型の四元素をパラケルススは「母」に相当するものと見なし。その真の姿は物質的な元素の中にやどる霊魂だとさえ考えていたという。この話はなかなか興味をそそる。さらに、パラケルススが唱える三原基が母体に対する種子に相当するのではないかという解釈が示されている。……とここで、三原基の考え方がどこから着想されているのかといった問題は現行の研究ではどうなっているのかしら、というあたりがとても気になってしまった。

フランケンシュタインの怪物の素があったとすれば、そうしたクィンタ・エッセンティア、あるいは四元素と三原基の相互作用のあたりに隠されていたのかもしれない……(おあとがよろしいようで……)。