「七つの大罪」の研究領域

ちょいとばかり古い(1968年の)ものだけれど、ジークフリート・ウェンゼル「七つの大罪:いくつかの研究課題」(Siegfried Wenzel, The Seven Deadly Sins: Some problems of Research, Speculum, vol. XLIII, 1968)というレビュー論文(なのかな)をざっと見する。七つ(もしくは八つ)の大罪という概念も、歴史的な構築物と考えることができるわけだけれど、個人的にその成立や歴史的展開というのはあまり気にかけたことがなかった。今回ちょっとメルマガ関連でロバート・グロステストについていろいろ見ていて、この問題に行き当たった。この七つの大罪の小史も実に豊かな研究領域であることを知る……。罪をそういう形で示した嚆矢となる文献は、四世紀の修道士エヴァグリオス・ポンティコスによるもので、そこでは八つの罪が列挙されていた。そのスキームをエヴァグリオスがどうやって得たのかは大きな問題とされている。オリゲネスとの関係や、写本の帰属の真偽などいろいろな問題点が指摘されている。けれども、やはり面白そうなのはなんといっても中世における展開。とりわけ12世紀から13世紀にかけての神学者たちによる議論はとても興味深い。論文著者は、中世盛期の議論は三つの主要なモデルを区別できるとしている。一つめは七つの大罪を関連づける議論で、これはグレゴリウス一世(八つの罪を七つにした人物だ)以来の議論があり、サン=ヴィクトルのフーゴーなどが継承しているという。一方で中世盛期にはアリストテレスの諸原理を罪の関連性に当てはめようとする動きが起こり、ラ・ロシェルのジャンやヘイルズのアレクサンダーなどに見られるという。さらに後になると、二つめとして心理学的な根拠で罪を考える議論が出てくる。罪を意志の方向づけの誤りに帰す議論などで、アルベルトゥス・マグヌス、ボナヴェントゥラ、さらにトマス・アクィナスなどが挙げられている。

面白いのは三つめだ。一種「コスモロジカル」ないし「シンボリック」なモデルでの議論だというそれは、人間を七つの部分から成るものと見なすという発想(三つの魂の力、四つの身体の元素)にもとづくものだといい、それらの堕落と罪とが結びつけられている。そうした議論はウィリアム・ペラルドゥス(ギヨーム・ペロー:ドミニコ会の説教師)やロバート・グロステストなどに見られるという。グロステストには「神とはそれ以上のものを考えられない存在」という書き出しの告解論があるのだそうで、そこにそうした考え方と、さらにそれぞれの罪に対置される徳の概念が示されているという。論文著者は、この徳や罪と生理学の関係性や、罪と惑星との関連づけの起源などは大きな研究領域だとし、グロステストの著書(さらにはオーベルニュのギヨーム、ウェールズのジョン)の知的背景の研究が有益となるだろうと述べている。示唆されたそれらの研究領域のその後の進展はとても気になるところだ。論考はこの後、さらにグロステストに見られる、キリスト教の教義へのアリストテレス霊魂論の適用の問題などにも触れ、さらに後半では七つの大罪の中世文化への意味づけについて、より広い見地から、様々な研究領域(生活の実践、絵画表現、文学作品など)を取り上げて、取り組まれるべき課題を示している。これらがどれくらい実現しているのかも含めて、その後の研究を眺めてみたい。

ヒエロニムス・ボスの《七つの大罪と四終》(1485年)
ヒエロニムス・ボスの《七つの大罪と四終》(1485年)