メモ:固有名問題

意味・真理・存在  分析哲学入門・中級編 (講談社選書メチエ)日曜哲学的メモ。分析哲学での「存在論」の扱いを概観すべく、八木沢敬『意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編 (講談社選書メチエ)』(講談社、2013)から「第五章 存在論」(pp.163-235)を読んでみる。言語の論理分析による固有名問題が、その主要な論者の議論のエッセンスを通じてまとめられている。ラッセルからクワイン、クリプキ、カプラン、ルイスと進み、最後にフレーゲに戻るという構成。固有名をどう捉えるかという議論が、存在をどう考えるか(何が存在し、何が存在しないのか)という問題へと進んでいく様はとても興味深い。著者によるとフレーゲは、存在を個体の性質と見なす長い歴史(アンセルムス以来だという)への決定的な論駁をもたらし、それをメタ概念(概念の概念)であると規定したという。「○○が存在する」と言うときの○○は概念なのであり、述語はそれに当てはまる概念、つまり概念の概念なのでメタ概念ということになる。存在というメタ概念がその○○に当てはまるのは、その概念○○が何らかの個体に当てはまることがその条件となる……なにやらちょっとややこしい。

フレーゲの言語哲学これに関連して野本和幸『フレーゲの言語哲学』(勁草書房、1986-2000)から、「第五章 固有名詞論」(pp.243-285)を合わせて見てみると、要はフレーゲによる意味と意義の区別が関係しているらしいことがわかる。○○の意味とはそれが具体的な指示対象を持っていることをいい、○○の意義とはその概念の中身、つまり記述で示すことのできる諸特徴のことをいう。ということは、○○が意義はともかく意味としては具体的な指示対象をもたない、という場合はありうることになる(虚構の場合など)。で、(指示)対象の特性を第一階概念とすると、「存在」とはその第一階概念のさらに特性である第二階概念だとされる。つまり○○という概念の場合、その対象となる個体がなければ(つまり意味が成立していなければ)、それを第一階概念とする第二階概念は成立しないことになるわけだ。フレーゲは、意義のほうは使う個人や文脈によって多少のゆれがあることを認めているものの(意義を構成する記述の間違いなど)、意味、すなわち指示対象のほうは、コミュニティワイドな固定性があると考えているという。なるほど、個人的発話のゆらぎと言語の公共性とをともに視野に収めていて、なかなか面白い。意義と意味の区別の話からは、全体としてなにやらオッカムの直観的認識・抽象的認識の区別あたりの、はるか彼方の残響がかすかに聞こえてくる感じがしなくもない。もちろんスアレスの対象的概念・形相的概念の区別の重なりなどは、もっと濃い響きということになるのだろうけれど……(笑)。