スアレス『形而上学討論集』から 6

(第二討論第一部から)前回の続き。存在者の形相的概念について、想定される異論への反駁を記している箇所。とりわけ問題となっているのは、「存在者」という形相的概念が単純なものを指し示すとする異論。スアレスは、その形相的概念は、あくまで一定の意味の幅とあいまいさをもった一般概念であって、個別者を捉えるには適していないとしている。

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6. あなたがこう言うとしよう。「実体、生物、あるいは同様の名称は、これやそれといった、実体や生物の自然本性を直接的に意味するのではなく、実体や生物についての思惟を意味するのだ。したがって、かかる言葉の意味に対応する区別された概念を形成するために、個別の自然本性に降りていく必要はない。存在者はまさに別なのだ。その言葉が直接意味するのは実体性なのであり、いずれにしても単一のもの、すなわち共通の自然本性と制約的な差異から成る複合体ではないということだからだ」と。しかしながら、続く第二部でより広範に示すように、実際にはこれは誤りである。ここでは簡単に述べるが、そのことは概念理解の共通の様態から明らかだ。

神がこの上なく単純で、共通の自然本性と制約的な差異から成る複合体ではないからといって、存在者は直接に神そのものを意味するなどと、一体誰が言うだろうか?さらにそのような問いかけは、実体、偶有、その他の単一的な類または概念についても可能である。同じく、なにゆえに存在者は、動物やハビトゥスなどのような、共通の自然本性と制約的な差異から成る複合体よりも、むしろ単純な実体性を直接的に意味すると言われなくてはならないのだろうか?かかる存在者は、その概念の下にあらゆるものを全般的に内包するが、実体ないし性質の概念の場合のように、存在者でないものはいっさい含まれない。動物やハビトゥスの概念の場合でもそれは同様だ。複合的な概念は複数の概念に解体でき、そこではいずれも他を内包することはない。一方で単純な概念はその限りではなく、不十分ながら間接的・直接的な意味を指し示す。では、合理性が単純な概念で、人間が複合的な概念であるからといって、一体誰が、存在者は人間ではなく合理性を直接的に意味するなどと信じられるだろうか?

それゆえ、個別的かつ厳密に存在者そのものの形相的概念を立てなくてはならないにせよ、その概念は、(それを通して)個別の存在者をその固有性および合理的な限定性にもとづいて理解するには適していないのである。ゆえに、かかる存在者の概念は、もしそれを立てるのであれば、このように存在者の個別性に関しては常に混乱をきたすものとなる。それゆえに聖トマスは、(『神学大全』の)第一部一四問六節においてこう述べているのである。存在者の数だけ、神がおのれ以外のものを認識するのだとすると、神はそれらを共通性においてのみ認識し、混乱しかつ不完全に認識することになる。そのためにトマスはこう結論づけているのだ。神は、存在者の思惟にあって共通するもののみにもとづいてそれらを認識するのではなく、あるものが他から区別されることにももとづいてそれらを認識するのだ、と。したがってトマスは、かかる存在者の概念は、たとえそれが厳密に立てられるにせよ、そのものとして捉えられ複合体もしくは単体として他から区別されてるような、いかなる存在者の思惟的な限定に関しても、常に混乱をきたすと考えているのである。