聖なる災禍……

聖なるものの刻印 科学的合理性はなぜ盲目かジャン=ピエール・デュピュイ『聖なるものの刻印−−科学的合理性はなぜ盲目か』(西谷修ほか訳、以文社)をずらずらっと読む。勝手知ったる……というわけではないけれど、デュピュイ思想の総覧というかエッセンスというかが比較的コンパクトにまとまった著作。一部は例のツナミ本とも重複したりしている。デュピュイが唱える「賢明なる破局論」は同著者の問題系の中で重要な位置づけを占めているわけだけれど、今改めて読んでみて思うのは、これはやはりあくまで一種のマニフェスト(宣言)だということ。その宣言を受けて、より具体的で深化した分析なり認識なり脱構築なりが続かなければ、かけ声倒れになってしまいかねない……。破局が現実化する様を目の当たり(厳密には違うかもしれないが)にしてもなお、あたかもそれでみそぎを果たしたかのように、次の破局へと突き進むことを厭わない心性というのは一体何か。それは網の目のようにとても細やかに日常を覆っていて、「目覚めていろ!」と叫ばれたところで、とうてい容易にあらがえるようなシロモノではなさそうに思えてきている。ちょうど聖なるもの(神やその他のもろもろ)が、いくらジラール流のスケープゴート理論で説明されたところで、一定の効力を失わなず聖性を保ち続けるのと同じように、来るべき破局が投げかける暗い影もまた、人々を麻痺させ続ける……。

デュピュイはそこに同じ図式を見て取る。それに従うなら、人はすでに起きた災禍を一種のスケープゴートに仕立てている、というわけだ。災禍はそれなりの頻度で起きるがゆえに、スケープゴートにする素材には事欠かない。それによって将来の破局への恐れは和らぎ、しばらくは安寧を張り巡らせることができる。けれども、たとえそういう理解・認識を得たとしても、来るべき破局を直視できないことには変わりがない。ではどうするか。極端な話、スケープゴートの図式から自由になれないなら(果たして本当にそうかも考えなければいけないが、さしあたり)、それを無効化していくほかないのかもしれない……。一つの方途としては、スケープゴートをむしろ過剰に徴づけて(なにかもっと過剰な記号をそこに据えて)、その調停機能事態を内破・反転させてしまう、なんてことが考えられそうだ。原発事故はその意味ではあらかじめ過剰さを纏っている。これを利用しない手はないのではないか、と。福島の第一原発を観光地化(ブラックツーリズム化)しようなんて発想は、やや極端ではあるけれど、そういう類のものとして評価できるのかもしれない。このところの『美味しんぼ』による批判などは、あまりに正攻法すぎ(それはそれで必要ではあるのだが)、それ自体が放逐(スケープゴート化)されてしまいかねないものだったし、実際にそうなった。やはり頭を絞るべきは別種の発想だ。原発問題だけではない、カタストロフィを意識しつつ組織化される日常の営みのために。