プロタゴラス的相対主義

前回と同じダラス・デネリーの論文から、今度は「プロタゴラスと一四世紀の認識論的相対主義の発明」(Dallas G. Denery II, Protagoras and the Fourteenth-Century Invention of Epistemological Relativism, Visual Ressources, vol.25, No.1, 2009)をざっと読み。おお、これも興味深い。懐疑主義というよりも相対主義の系譜としてオートレクールのニコラを位置づけている。まず出だしがなかなか印象的。ニコル・オレーム(14世紀)によるアリストテレス『諸天について』の注解書には、「地球から見れば天が動いているように見えるが、天から見れば地球が動いているように見える。かくも視点の場所によって判断は異なってくる」みたいな一節があるのだという。オレームは詰まるところ当時のアリストテレス説(地球は不動で天空が動く)を奉じているのだけれど、オレームは「思考実験」と銘打ってそうした話を示しているのだといい、どうやらそれは、当時一般化していた認識論的な限界、自然学の神学への従属、権威(アリストテレスなど)の浸食などを反映したものだったらしい。一言で言えば、絶対的真理の存在自体は疑わずとも、世界の真理は人間が自然にはアクセスできないというのが、当時の広く共有されていた基本認識だった。人間の認識にはもとよりそうした相対主義的な限界が課せられている……。

相対主義の祖として知られているのはプロタゴラスだが、その一節「人間は万物の尺度である」はアリストテレスを通じて西欧中世の読者たちにも伝えられることになった。アリストテレスはプロタゴラスの議論から生じるものの見え方や見識の多様性(たとえば、同じものが存在するとも、存在しないとも言えるような事態)を、無矛盾の原則を掲げて一蹴する。中世盛期の論者たちもおおむねそれに従っていたようで、そんな中、たとえばブラバンのシゲルス(13世紀)などは、プロタゴラスの相対主義的なテーゼを一種の不謬性の議論に変形する形で、見えるものは端的に真であるという議論を導いてみせたりもするようだ。けれども、14世紀になってようやくその議論は再燃することになり、プロタゴラスのいわば復権も見られるようになる……。先陣を切るのはオートレクールのニコラだ。彼もまた「見えるものは真である」という議論を示すわけだけれど、シゲルスとはニュアンスもアプローチもまったく異なる。ニコラはアリストテレスによるプロタゴラスへの反論を批判的に捉え、その復権に一役買うことになる。ニコラについてのここから先の話は前の論文と重なる部分も大きい。ニコラが最低限必要な出発点として「適切に現れる」ものを真と認める必要を説いていることや、ニコラの場合にはそれを「真理」としてではなく「蓋然性」の理論(それ自体相対的なものだ)として示していることなどがまとめられている。面白いのは、アリストテレスに則った反プロタゴラス的伝統によって引き合いに出されていたテミスティオスの議論を、ニコラが批判しているという点。ニコラのいう認識論的な限界という議論はその文脈で指摘されているのだという。さらに論文の末尾のほうでは、プロタゴラスのより本格的な復権が15世紀に生じることも言及されている。レオン・バッティスタ・アルベルティの絵画論(での遠近法)が、そうした相対主義の文脈で位置づけられている。

サルヴァトール・ローザ(17世紀)の≪デモクリトスとプロタゴラス≫。右側の人物がプロタゴラスらしいのだが……。
サルヴァトール・ローザ(17世紀)の≪デモクリトスとプロタゴラス≫。右側の人物がプロタゴラスらしいのだが……。