潜行せよ、とナベールは言う……

悪についての試論 (叢書・ウニベルシタス)これは個人的に、久々に(ある意味で)心躍らされる一冊。ジャン・ナベール『悪についての試論 (叢書・ウニベルシタス)』(杉村靖彦訳、法政大学出版局)。ナベールは初めて読んだし(というか、同書が初の邦訳なのだそうだ)、そもそも名前も知らなかったのだけれど、なるほどその内省に内省を重ねていく重厚な思考と論述は、ある種のフランスの思想的伝統を感じさせる(原書は1955年刊)。確かに晦渋ではあるものの、読み手にとってはある意味、強壮剤のようなテキストかもしれない。人が抱える「悪」には、道徳的規範への侵犯といったレベルには収まらない、本源的な悪というものがあるのではないか……考察はそこから始まる。なぜそう考えられるかといえば、それはなにがしかの行為や、その他のなんらかの現実に対して、「正当化できない」という感情を抱くことがあるからだ。それはきわめて原初的な感情であり、それを生み出す大元のところには、規範などを超越し、直接的には把持することができない(原初的感情を通してしか透けてみえないような)、その感情に対応する「悪」があるに違いない、と。もしそれがあるとしたら、それが意識においてに捉えられないのは、意識の中の深いところに隠れているからのではないのか。意識の深いところとはどこか。それは、個別の意識が他から分離せざるをえないという本源的な裂け目にほかならないのではないか……。こういう感じで、思弁は深く深く潜っていく。ただ、これもまたフランス的、あるいは大陸的な哲学思考の常で、そうした悪を前にして、人がなしうる術は限りなく小さいものでしかない。悪を覆い隠してしまうような諸力に抗い、その都度、その認識を自覚しようと努めることからしか、そうした分離を乗り越えることはできないだろう、というのだ。

こうした文脈で一性(ここでは神を指しているわけではない)とか純粋意識とか称されるものにも言及されるが、そのあたりには、どこか宗教的・宗教哲学的な残滓も窺える。またカント哲学への批判的な姿勢も随所に見られる。巻末の訳者解説では、この悪の問題についての哲学史的なまとめもあり、そこではライプニッツの神義論がリスボン大地震を契機に失効し、悪の問いが再編成されてカントの「善意志」と「根源悪」に至ることが記されているが、ナベールはさらにその先の、「犯す悪」だけでなく「被る悪」をも考慮しなければならないという時代的な要請の中に位置づけられる。その周辺には、同じように思考不可能な悪や思考からこぼれ落ちる悪を論じたレヴィナスやアーレントがいる……。

全体はこのように壮大な思弁を物語っていくのだけれど、人によってはそうした実定・検証できない空論を弄してどうなるのか、という意見もあるかもしれない。けれども、たとえば「分離・分断」が悪を生じせしめるというあたりの見識ひとつ取ってみても、個人レベルから社会的レベル、災禍の問題から国際関係・戦争にいたるまで、そうした議論が示唆するところは案外大きいのではないか、という気もする。

卑近な例を一つ挙げておこう。認知症の介護の問題だ。個人的には老親の介護を始めてちょうど三年が経過したところなので、とりわけこれは思うところが大きい。記憶を保持できない被介護者は、生活のいろいろな面でそのことを取り繕うために嘘を重ねる。介護する側にはときにそれがなんとも許せない・許しがたいと思うことがある。相手が病気であることを承知しつつも、そうした許しがたさはときになかなか鎮めるのが難しかったりもする。で、こうした感情の根は相当に深いように思われるのだ。もちろんそれで虐待などの反道徳的行為に直結するわけではないけれども、いずれにしてもそうしたダークな感情が渦巻くのは、そこにある種のコミュニケーションがもはや成立しえないという事実があるのも確かだ。それは病気ゆえの絶対的な意志不疎通という事態であり、分断されていることは修復不可能な与件でしかない。被介護者側もまた、その意志不疎通の事態に苦しんでいるのかもしれないが(虚言はその現れなのか?)、その者にはもはやそのこと自体を告げる術すらない。だからこそ、そこに巣くう悪への対処は、その悪をその都度反省的に注視する・見据えることしかないのかもしれない、と言われるならば、それはある種とても大きなリアリティをもって迫ってくる。