パングロスに抗って

すでにほぼ夏休みモード全開に近いかも(苦笑)。というわけで、思うところあって水林章『「カンディード」<戦争>を前にした青年 (理想の教室)』(みすず書房、2005)を読んでみた。いわゆる紙上の仮想講義本なのだけれど、ここではヴォルテール『カンディード』から、第三章のブルガリア軍脱走の一節だけを取り上げ、そこから作品世界の全体(この部分と全体を入れ子関係と見立てている)にまでおよぶ批評的な読みを展開してみせるという趣向。なるほど、『カンディード』の話の全体を、師のパングロスが説く善的な世界観からの離脱の物語として見ていくならば(その読みはごく正当なものだが)、冒頭近くのその「戦争」を扱った箇所も、同じような狭量な見識からの「目覚め」として読むことはできそうだ。そこでの記述は、視覚や聴覚を通じての「抽象的な」軍の賛美から、より生々しい、凄惨な描写へと一足飛びに移行していく。それはまた、ヴォルテールがライプニッツの最善説に対して示す懐疑(それはとりわけリスボンの大地震を契機として一気に吹き出すらしいのだけれど)とも容易に重ね合わせられる。さらには、作品の背景にもなっている当時の世相、あるいは移行期としての時代的変化などを読み込むこともできる……。そうした多層的な読みは、まだいろいろと浮上させることができそうだ。あるいは今なら、第五章のような嵐や地震の記述と、それでもなお「この現象の充足理由はなんだろう」と問うしかないパングロスの滑稽さを、読みの中心に据えることもできるかもしれない。

カンディード 他五篇 (岩波文庫)戦争というテーマだけに限ってみても、戦争語りが「抽象的」なレベルにとどまるのか、もっと具体的な生々しさを取り込もうとするのかによって、「戦争」の理解は大きく様相が異なってくる。そのあたりのことを前景化してみるのも興味深いかもしれない。いきおい、それは最近の国内の世情にも通底せざるをえない。集団的自衛権の議論で、多くの人が「不安」を感じるというときのその「不安」の正体の一端は、おそらくそのあたりの落差にあるのだろうと思う。為政者たちの語る「戦争」はどこか絵空事のようだが、一方で肉付けされた戦争についての想像的記憶(実体験はなくとも、画像や映像などで形作られる膨大なイメージャリーの集積だ)は、ネットの時代にあっていや増していくばかりだ。大きな落差。ところが、そうした落差に配慮することもなく、為政者たちはあえて言うなら「パングロス的な」絵空事の戦争しか語らない(というか語れない)。けれどもそれが何度も繰り返されれば、私たちはいつしか目覚める前のカンディードのようになってしまうかもしれない。だからこそ、パングロスのような妄信的な語りに盲従することには、いつも警戒していなくてはならない。最善説を捨てると宣言するときのカンディードは、最善説とは何かと聞かれてこう答える。「うまくいっていないのに、すべては善だと言い張る血迷った熱病さ」(一九章)。