トマス:復活の肉体論

トマス・アクィナス 「存在」の形而上学これまた夏読書の一環だけれど、稲垣良典『トマス・アクィナス 「存在<エッセ>」の形而上学』(春秋社、2014)にかなり大まかに目を通しているところ。うーむ、読み違えているのかもしれないが、個人的には少しこれはなにやら「躓きの石」っぽい気がしている。まずもってその立ち位置のようなものがはっきりと浮かび上がってこないからだ。「現代存在論」への異義を唱えるとして始まる同書だけれど、その「現代存在論」なるものがまずもってよく見えてこない。まさか根本的に前提が異なる分析哲学系の存在論が念頭にあるわけではないだろうし。また、「価値」(要するに「善」?)が「存在」から除外されていることを問題視したりもしているのだけれど、とはいえ単純に信仰への回帰を説いているわけでもない(もしそうであるなら、論点先取りのような話になってしまいそう……)。論じられているトマスの存在論そのものにしても、著者が高らかに宣言するほどには、トマスの生き生きとした核心部分が伝わってこないような気がする……。たとえばその存在(エッセ)論を「受肉の存在論」として受け止める必要がある、という話が何度か出てくるのだけれど、さしあたり議論がその方向に深まっていくようには見えないのだが……。

とはいえ、確かにキリスト論を中心としてトマスの神学的全体を見ていくというのはいかにも正道という印象ではある。これに関連して、ちょっと面白い問題を扱った論考を見かけた。ターナー・ネヴィット「キリストの死についてのアクィナスの議論:消滅論側の新議論」(Turner C Nevitt, Aquinas on the Death of Christ: A New Argument for Corruptionism, American Catholic Philosophical Quartely, Forthcoming)というもの。キリスト教の信仰上「人間が死んで復活するその間、その人間はどういう状態にあるのか」という問題についてトマス・アクィナスがどう考えていたかをめぐっては、中世から現代にいたるまで二つの解釈の立場があるのだという。魂は肉体を離れて存続するとされるわけだけれど、ではその人「本人」は存続していると言えるのか、それとも言えないのか。言えると考える一派を「存続派」(survivalist)、言えないと考える一派を「消滅派」(corruptionist)と称すのだとか。で、トマスの立場だが、これは微妙に曖昧らしいのだけれど、この論考はトマスが「消滅派」の側に立っているとして、トマスのテキストからそれを擁護できる箇所を挙げてまとめていくという趣向。神学的な議論なので、個人的にどちらがどうこうと言うことはできないけれど、この問題でもキリスト論からのアプローチが見られて興味深い。つまり、その問題を考える上で、キリストは復活するまでの三日間、どういう状態だったのかという問いが鍵となる、というのだ。トマスは、その間のキリストは人間であったわけではないとしているという。この論考(つまりは消滅派)によれば、トマスの人間観にあっては、肉体と魂は密接な関係性をもつ以上、魂のみとなったときに、それは厳密には「その人」ではないということになる。ただキリストの場合は例外で、その離在する魂と肉体は死後も三位一体の第二の位格に統合されたままになっているので、その意味では死後も魂と肉体は密接に繋がっている、とトマスは説くのだという。なるほど。でも存続派にはまた別の解釈・言い分があるようで、両者の歩み寄りというのは歴史上ほとんどないらしい。