プロクロスのパルメニデス注解から

Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: Introduction Generale.1ere Et 2e Partie (Collection Des Universites De France Serie Grecque)ほぼ一ヶ月前の記事で取り上げたように、一説によるとパルメニデスの「一」はまったくの別格のもの(非存在)であり、そこから「多」が生じてなどいないといわれる。また、後世の解釈がそのことを掌握できず、ひたすら「一」と「多」を同じ地平に位置づけようとする試みとして形而上学が展開してきた、という話もあった。そうした前提を踏まえつつ、プロクロスの『パルメニデス注解』を見てみようということで、希仏対訳本の一巻目(Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: Introduction Generale.1ere Et 2e Partie (Collection Des Universites De France Serie Grecque), Les Belles Lettres, 2007(この第一巻は二分冊になっており、片方が総合的序論、もう片方が本文を所収している)を眺めているところ(まだ一巻の本文篇の三分の一程度)。プロクロスは冒頭の箇所でゼノンとパルメニデスのスタンスの違いについて触れている。ゼノンが存在は「一」であるとともに「多」でもあるとして、「一」は同位的に「多」を包含しているとする(I, 620)のに対し、パルメニデスの「一」は隔絶的で、「多」から切り離されているとされる。なるほど、ここまでは前に挙げた解釈にも沿う。けれども、そこから先は新プラトン主義的な解釈となってしまう。つまり「一」は、それをとりまくものによって多へと接合されなくてはならない、というのだ。

この一巻では最初にプラトンの『パルメニデス』の構成が紹介され、語りの重層性についても触れられている。その上で、そうした層をなす登場人物の語りのレベルが、すでにして「一」と「多」の関係になぞらえうると指摘される。まず、パルメニデスは何にも参与されない神的な知性としての「一」に相当するという。ゼノンはその神的な魂が参与する第二の知性であり、それでも十全な知性ではあるわけだけれど、ソクラテスにいたるとそれはいまだ不完全で、部分的知性に位置づけられる(I, 628)。この三層構造は、その次の語りのレベルでも反復されるのだという。まず、パルメニデスたちのホスト役で、対話の聴き手として満ち足りた体験をするピュトドロスが「神的な魂」に位置づけられる。そしてその対話を語るアンティフォンが、自然に働きかける「ダイモン的な魂」に相当するとされ、次いで本編の語り手となるケファロスほかが「個的な魂」に位置する、と(I, 629)。このあたり、まさに流出論的な構造でもって全体的構成がなされているとの解釈だ。

続いてプロクロスは、そうした構造を踏まえて、読み手側は逆に対話篇からその究極の目的である論理そのものへと遡及しなけばならないと説く。そしてまずは先達とされる昔の人々がどう読んでいたかを振り返ってみせる。そこでの中心的テーゼとなるのが、同対話篇が論理学的な訓練を描いているにすぎないという解釈だ(I, 634)。一方でプロクロスは、その対話篇が現実について論じているという対論を突きつけてみせる。ここで、パルメニデスによる「一」の議論が現実の無限の「多」とどう結びつくのかというアポリアもまた、鮮明に浮かび上がってくる(I, 639)。結局プロクロスは、そこに現実についての議論と論理学的な訓練との一種のハイブリッドを見る立場(プロクロスの師匠であるシリアノスの立場)にもとづいて話を進めていくことになる(I, 641)。その全体が神学(神をめぐる形而上的議論)として性格づけられていることも、そこで引き合いに出されている。で、その後は対話のスタイル、弁証法、方法論の話へと話題がシフトしていく(いまここ)。……というわけで、まだ全体からすると序のほんのさわり部分にすぎないけれど、プロクロスの注釈は、やはり「一」と「多」を切り離す議論には批判的で、全体をそれなりの整合性あるものとしてまとめる方向へとひたすら向かっていく。この後は各パッセージを踏まえた各論的な注解になっていくようだけれど、どう展開していくのか……しばらくは散発的にコメントしていきたい。