一四世紀の情念論

先に見た清水真木『感情とは何か』によると、デカルトまでの情念論は情念の分類に始終していたという話だった。しかしながら、多少とも実際のテキストから受ける印象は、「分類に始終」というのとは微妙にズレるような気がする。おそらくは「分類」の様態なり動機なりが独特なものだったからではないかと思うのだけれど、そのあたり、きちんと言語化するのは難しい。かつてのそれをどういう分類と位置づければいいのか……なんてことを念頭に置きつつ、さしあたり一四世紀の情念論を扱った論考を眺めておくことにした。ドミニク・ペルラー「感情と認識−−魂の情念に関する一四世紀の論説」(Dominik Perler, Emotions and Cognitions – Fourteenth-Century Discussions on the Passions of the Soul, Vivarium, vol. 43, No.2, 2005)というもの。必ずしも全体像が明確なわけではないオッカムとその後のヴォデハムによる情念論を、体系的に再構築しようという試みだ。

まずオッカムは、情念はあくまで感覚的な知覚によって生じるものと位置づけ、知性はそこにいっさい関与しないという立場を取る。直観的認識(知覚の場合)でも抽象的認識(記憶などの場合)でもいいが、対象を感覚が捉えることによってなにがしかの感情が直接的にせり上がる以上、知性(つまりは概念化)はそこに関係していない、と見るわけだ。つまりは対象が情念をもたらすのではなく、世界についての人間の感覚的認識が情念をもたらすのだということだ。情念は感覚に帰結するのであり、オッカムはそこに認識内容がなくともよいとすら考えているという。その一方でオッカムは、そうした感覚的認識に際して意志が介在することで、情念をある程度制御することもできると考えている。そしてまた、意志は人間の高次の行為をもたらすものであることから、意志がもたらす情念というものもある、と想定しているという。例として挙げられているのが(いかにも中世的なものだが)「享楽(fruitio)」についての議論。その最たるものは死後の離在的な魂が神を観想する際の至福とされるわけだが、その場合、感覚器官のない魂がどうやって享楽を得るのかが問われることになる。そこから、非感覚的な情念の構造や原因が議論されることにもなる。で、その場合でもオッカムは、享楽を「知性によって概念化された情念」と見なす当時の他の論者たちとは異なり、意志のみから生じる働きだとしているという。なかなか徹底している。けれどもその場合、それは厳密な知的作用とはどう違うのかといった問題が生じてくる。

オッカムが明確な回答を寄せていないそうした問題に、徹底的に拘ることになるのがヴォデハムだ。ヴォデハムは「意志的な情念」にまつわる構造を細かく検討してみせる。まず、享楽対象の最初の認識は、その対象による享楽とは異なるとし、その情念の生成に知的作用が必要であることを認める。知性は部分的な原因をなしているというのだ。けれども情念は認識とイコールではない。ヴォデハムは一種の折衷案を提示する。情念は、知性による認識と、意志そのものとの両方を原因とする、認識対象を伴った意志の状態だとされる。情念とはいわば事物のある種の概念化の方途であるというのだ。ただしそれは必ずしも判断を伴うものではない。一方でそれは必ずや理解を伴っている。こうして最終的に、ヴォデハムは認識を再分割し、感覚的認識、知的認識、さらに単に理解のみを伴う意志的認識、判断をも伴う意志的認識などを分けて考えることになる。オッカムの議論を補足するものとしてもともとは構想された、この高次の認識の分類ではあるけれど、その煩雑さにはリミニのグレゴリウスやアイイーのペトルスなどによって、オッカム的な批判が浴びせられたのだそうだ。主知主義か主意主義かという文脈において、ヴォデハムは知性寄りの譲歩を行うも、主意主義を保つために苦労して認識の分類を練り上げていることがわかる。でもそれならば、最初から知性が認識を一手に引き受けるとすればよいではないか、意志はただ情動的なものを付け加えるだけだとすればよいではないか(リミニのグレゴリウス)という話が出てくるのも頷ける。なるほど、オッカムがいくぶん単純に分割してみせるところに、ウォデハムはもっと曖昧で混沌としたものを見てとっているように見える。それをあえて明確化しようとして、細かい分割に行き着くしかなくなっているように……。