イブン・シーナーの因果論

つい先頃、カルターリ『西欧古代神話図像大鑑 続篇―東洋・新世界篇』(八坂書房)の邦訳を刊行された大橋喜之氏のブログ「ヘルモゲネスを探して」で、アヴィセンナの霊魂論・能動知性論についての記事があったのに触発されて、久々にイブン・シーナー関連の論考を読んでみた。シャムスッディン・アリフ「イスラム哲学における因果関係:イブン・シーナーの諸議論」(Syamsuddin Arif, Causality in Islamic Philosophy: The Arguments of Ibn Sina, Islam & Science, vol.7, 2009)というもの。基本的なところを押さえようとしていて、個人的にはとても有用な一篇だ。「事物を知るとはその原因を知ること」がアリストテレスにおける知の在り方だとするなら、原因に関する考察は知そのものをめぐる議論にも関係していくはずだ。で、論考の中身だけれど、イブン・シーナーの原因・結果論でまず特徴的なのは、アリストテレスの四原因論を踏まえつつも、そこに独自見解を加えている点なのだという。とくに作用因についての解釈が独特で、作用因は単に変化や運動をもたらすのみならず、事物の「存在の原因」、「存在をもたらすもの」をもなしていると考えているのだという。さらにまた、そのものとしては可能なものである偶有的な存在であろうとも、それが存在にいたるには必然的にそうなるのではなくてはならないとし、作用因(に限らず原因全体)が存在するのであれば、ほかの条件がすべて満たされるなら、結果もまた必然的に存在するのでなければならないと考えているのだという。つまり作用因は、存在化の原因であるとともに、必然化の原因でもあるということだ。作用因と結果との繋がりは、単に「外延を共有する」というだけでなく、「存在をも共有する」ということになる。このあたりはなかなか面白い議論になっている。また、そこでは「ほかの条件が満たされるなら」という部分がミソで、生成と消滅が繰り返される月下世界では、そうした本性的な条件が揃わないこともあり、結果的にその帰結が偶有的な存在であることも認められるということになる、と。