中世の「ディベート」:オブリガティオのゲーム性?

以前にも取り上げたことがあるけれど(http://www.medieviste.org/?p=4472)、14世紀ごろに確立されたらしい議論形式として、「オブリガティオ」(義務的論争、とでも言うのだろうか)があるという。どうやらこれは二人で行ういわば「ディベート」のようなもので、一方が質問者、もう一方が応答者の役を担い、質問者は応答者を矛盾に追い込もうとし、応答者は矛盾を払拭しようとするという競い合いのゲームだったようだ。教育的な目的があったのかもしれない(?)が、実際にその形式で議論がなされていたのかどうかも含めて、そのあたりは定かではないらしい。ただ、その形式についてのルールなどを解説した書物はあって、代表的なものがウォルター・バーリー(14世紀)の『オブリガティオ論』だという。

その内容の一端について取り上げた論考を眺めてみた。トマス・エッケンバーグ「オブリガティオ論争での順序」(Thomas Ekenberg, Order in Obligational Disputations, Medieval Forms of Argument: Disputation & Debate, Wipf & Stock Publishers, 2003)というもの。バーリーの著書が挙げているというオブリガティオのルールのうち、とくに質問者がまず発する基本的スタンス(positum)の順番に潜む問題を取り上げ、同時代のリチャード・キルヴィントンがそのルールについて寄せた異論を紹介している。オブリガティオはまず、質問者が掲げるpositumについて応答者が肯定・否定・疑念のいずれかを発しなくてはならない。もしpositumを認めるなら、続いてそこから帰結・派生する事象(質問者が提示する)も認めなくてはならない。また、帰結・派生するのがpositumと相容れない事象であるならば、応答者はそれを否定しなくてはならない。positumと無関係の事象が提示された場合には、応答者の裁量で肯定・否定ができ、また疑わしい事象である場合には疑念ありと述べることもできる。ここで、どういった順番でpositumとそれに関連する事象が質問として掲げられるかが問題になる場合がある。たとえば、バーリーが挙げる例らしいのだが、こんな事態が生じうる。ローマにおらず、枢機卿でもない応答者が、「あなたはローマにいない、あるいは枢機卿である」というpositumを認めさせられると(少なくとも前半は正しいので)、「あなたは枢機卿である」という派生的な帰結をも認めなくてはならなくなる。逆に「あなたは枢機卿である」が先に発せられれば、応答者はこれを否定し、「あなたはローマにいない、または枢機卿である」も否定することができる。

前者の場合、positumをなす二つの命題がorでつながっているところがミソで、この一方(後半部分)が偽であるのに、positumとして認めさせられるところに問題があるわけだ。バーリーの挙げるルールの一つに、positumが偽であった場合、そのpositumと両立しうる任意の偽の命題が証明できる、というものがある。そのため、応答者は命題が偽であると知りながら妥当であると認めたり、真であると知りながら両立できないとして否定したりしなければならなくなる、というのだ。これを論文著者は「議論間の不整合性」(interdisputational inconsistencies)と称している。で、まさにこの点について、キルヴィントンは自著『ソフィスマタ』で反論を加えているらしい。つまり、応答者がローマにいたとしたら(枢機卿ではないのだから)このpositumを肯定しようとはしないだろうという意味で、最初の命題を認めることは、positumの義務に十分真摯に対応していないことを意味する、とキルヴィントンは喝破する。論文著者によればキルヴィントンは、最初の文が命題をなしているのに対して後半の文は事態(事物の状態)を言うものであるとし、命題について真であったとしても、それが事態について表明することを含意しないと断じているのだという。なるほどこれは至極まっとうな議論に見える。キルヴィントンは議論間の不整合性を認めないが、一方のバーリーは一定の許容範囲を与えているということらしい。バーリーのテキストそのものを読んでみたわけではないのでナンだが、この論文から受ける印象として、もしかするとバーリーの場合は、そういうことをも含めてのオブリガティオのゲーム性を称揚していたりしないのかしら、なんて思ったりもする……。