ヴィエンヌ公会議とフランシスコ会系論者たち

55065『霊魂論と他の諸学、学際的相互作用の一事例』(Psychology and the Other Disciplines: A Case of Cross-disciplinary Interaction (1250-1750) (History of Science and Medicine Library: Medieval and Early Modern Science, 19), J. M. Bakker et al., Brill, 2012 )という論集から、ウィリアム・ドゥーバ「ヴィエンヌ公会議以後の霊魂論:複数形相説と複数霊魂説についてのフランシスコ会系神学者の見解」(William Duba, The Souls after Vienne: Franciscan Theologians’ View on the Plurality of Forms and the Plurality of Souls, CA 1315-1330)というやや長めの論考にざっと目を通してみた。ロバート・パスナウが『形而上学的テーマ』で示したテーゼを受けて、14世紀のフランシスコ会派の論者たちによる、複数形相説をめぐる様々な異同をまとめてみせるという意欲作。ヴィエンヌ公会議(1311年)はテンプル騎士団がらみの裁定が有名だけれど、一方で「知的魂そのものが基本的に肉体の形相をなしている」ということも宣言していて、名指しこそしないまでも、ペトルス・ヨハネス・オリヴィの見解が事実上糾弾されている。オリヴィの見解は、知的魂は肉体の形相ではありえず(直接結びついてはおらず)、それは感覚的魂を通じて肉体と結びついている、というものだった。パスナウは、この公会議での決定は重大な影響を与え、フランシスコ会派のその後の論者たちを一様の見解へと向かわせ、アリストテレスの形而上学的推論への疑問を発することを妨げたと見ている。けれどもドゥーバは同論考で、公会議とほぼ同時代の14世紀前半の論者たちの見解を再考し、そこに基本は一様ながら多様なニュアンスの差を見出している(しかもその一様な部分も、外部の圧力というよりはパリ大学関係者たちの共通の講義内容を産出しようとする努力だったと見る)。

個別の議論は煩雑になるので割愛するが(少し詳しい紹介がこちらのブログ(「オシテオサレテ」)にある)、結論部のまとめを見ると、論文著者は大きく三つの流れを分けている。一つめはニューキャッスルのヒュー、メロンヌのフランソワ、ガルダのヒンベルトの一団で、基本的に複数の魂が、これまた複数の形相から成る肉体に与えられているという立場を取る。二つめは、ランドルフォ・カラッチオロ、マルキアのフランチェスコ、ゲラルドゥス・オドニスらで、肉体に宿るのは単一の知的魂だが、肉体のほうは別の形相と質料からなる複合体と見る立場。三つめはペトルス・アウレオリの、知的魂を特殊な形相と見る立場とされる(アウレオリは公会議前後で多少とも見解を変えているらしい)。最初の二つはドゥンス・スコトゥスの複数形相説が出発点をなしていて、前者は複数の部分的な形相の議論、後者は実体的形相が連続的に階層をなすという議論に力点を置いているのだとか。個人的に興味深いのは、著者が論考内のいくつかの箇所で取り上げている、スコトゥスによるゲント(ガン)のヘンリクスへの批判。ヘンリクスは知的魂とそれ自体実体をなす(形相と質料から成る)肉体といういわば二形論を取り、スコトゥスのほかその弟子筋のニューキャッスルのヒューなどがそれを批判している。ヘンリクスが二形性を論じるのは、知的魂には空間的な延長(広がり)がなく、一方で肉体は空間的延長を必要とするといった理由によるといい、スコトゥスは知的魂が機能として含む感覚的・植物的魂が空間的延長を担っているとして、肉体固有の(別の)形相は不要だとしているのだという。マルキアのフランチェスコなどもその議論をさらに敷衍し、たとえば感覚的魂も空間的延長をもたないと論じているのだとか。とはいえ、同フランチェスコやゲラルドゥス・オドニスなどはニ形論的な立場を取っていたりもするようで、このあたりはやはり微細な差異がとても興味深い。ぜひ確認を取ってみたいところだ。