アウグスティヌスの意志論再び

Apres La Metaphysique: Augustin? (Publications De L'institut D'etudes Medievales De L'institut Catholique De Paris)アウグスティヌスがらみで気になっていた一冊を見てみた。アラン・ド・リベラ編『形而上学の後に−−アウグスティヌス?』(Après La Métaphysique: Augustin? (Publications De L’institut D’études Médiévales De L’institut Catholique De Paris), éd. Alain de Libera, Vrin, 2013)という論集。アウグスティヌスが通常の形而上学的な枠組みに収まりきらない、その収まりきらなさを取り上げようという趣旨の論考が居並ぶ小著。リベラは巻頭でアウグスティヌスにおける主体の不在の問題を取り上げ、続くジャン=リュック・ナンシーは、信仰と思考との対立軸の乗り越えの可能性をアウグスティヌスに見るなどなど……。けれども個人的な目下の関心からすると、一番の注目はやはりオリヴィエ・ブールノアによるアウグスティヌスの意志についての論考。「アウグスティヌス:弱さと意志」(Olivier Boulnois, Augustin, La Faiblesse et la Volonté, pp.51-77)というそれは、善を指向しつつ悪を行ってしまうという人間の性<さが>、すなわち意志の弱さというテーマを通して、アウグスティヌスの意志論の全体像をまとめようというもので、とても参考になる一篇だ。

ブールノアによれば、たとえばアリストテレスの意志論では、欲望による駆動と逸脱が問題になるのだけれど、それに対しアウグスティヌスにおいては、自由意志は自律的だとされ、それは善に向かうという性向を備えているものの、(原罪による)人間の不完全性ゆえに必ずしも善を実現するとは限らない。その意志は選択的な自由を与えられてはいても、それが善を選ぶときにこそ真に自由であるとされ、善悪の選択は事実上なく、ただ善への意志があるのみだとされる。自由意志と言うときの「自由」は、善への意志という意味において、名詞での「自由」とは意味が異なるのだという。ところがここに、習慣(ハビトゥス)が立ちふさがる。習慣とはいわば固着化のことであり、人間が身体的な快楽などを求めるなど、自由意志からすれば避けるべき事柄の数々が、そうした固着化としてある。固着化した力は並大抵ではない。人間の自由意志は、選択という面から見れば大きな非対称になっているし、習慣の強固さという面から見ても逆方向での大きな非対称になっている。アウグスティヌスは確かに悪の選択を、元来の自由の欠落(選択ゆえの)と見なしているが、人間のすべての行動にはそうした「弱さ」が刻まれている、とされる。その根源的な悪への傾斜は、もともとのアダムの「意志」による選択の結果でもあった。原罪にまで遡るといわれる人間の意志の弱さは、やはり人間の意志に依存しているのであり、ゆえに人間の責任に帰されるしかない……。

かように引き裂かれた状態の解消のためには、神の恩寵の介在が必要とされる……というのが一応の筋書きなのだけれど(ペラギウス派への反論として)、しかしながらその恩寵は「万能の切り札」なのではない。解消にいたるには人間の側からの鍛錬もまた求められるのだ。その点にこそ、アウグスティヌスが単に神学の問題としてのみ意志論を扱うようなことをせず、哲学的的議論をも援用していることの意味がある、とブールノアは指摘する。なるほど、アウグスティヌスの意志論が、倫理的性向と固着化した習慣との分裂という、深いところに設定された不均衡の問題として掲げられているという見立ては、単なる欲望の力学などよりもはるかに重層的で異義深いものかもしれない、と思わせずにはいない。