無矛盾律から選択的自由へ

間が空いてしまったけれど大西克智『意志と自由』の続きをゆっくりと堪能中。少しばかりメモ。前回取り上げたグルヤール論文には、初老の女性による反応の事例としてこんな話が出てくる。まずビュリダンは「食べることと食べないことは同時に可能か」と相手の女性たちに尋ねる。当然「可能ではない」という答えが返ってくる。すると今度は「神は全能で世界を無に帰すこともできる。ならば食べることと食べないことが同時に可能であるようにすることもできると思うか」と問う。女性たちは一様に「わからない」と答える。実際には、当時の神学的な考え方からすると、神の全能性といえど無矛盾律の制約だけは受けるとされていたわけだけれど、一般信徒はさすがにそこまで知ることはなく、判断が保留にされてしまう。そんなわけで、謬論により認知・同意が弱められる例としてビュリダンはこれを挙げているのだけれど、改めて重要なのは、その無矛盾律の尊重が一四世紀当時においてきわめて一般的だったという点。

wikipediaから、ルイス・デ・モリナ
wikipediaから、ルイス・デ・モリナ
で、ここで再び前々回の大西本に戻るわけなのだけれど、16世紀のイエズス会の神学者ルイス・デ・モリナにあっては(同書第二章)、意志に関する限りこの無矛盾律は回避される、というか一種脱臼させられてしまうようだ。もちろん行為それ自体としては、一つの行為が選択されてなされる瞬間に、別の行為がなされることはありえない。けれどもその瞬間にも<潜勢態として>「反対の行為を選ぶ力能」が意志のうちに伏在するという議論を、モリナは継承しているのだという。この議論はドゥンス・スコトゥスに端を発するものだといい、行為の遂行の瞬間はその行為によって制約されて自由ではない、とするオッカムと対照をなしているとされる。で、モリナはというと、ただそれを継承するだけではなく、議論への修正を加えていくらしい。つまりスコトゥスを継承する一方で、スコトゥスが全体の構図において神の側のイニシアティブを重視する点(確かにスコトゥスの意志論は、神の意志に重点を置いている印象が強い)をモリナは「決定論だ」批判し、イニシアティブを人間の意志の側に大きくずらそうとするのだという。神は「無関心」へと中立化されて、意志の発端は人間の側に置かれる。無矛盾律という観点から見るなら、人間の意志においては潜勢態・現実態の区別でもって無矛盾律も回避され、そればかりか神の意志における無矛盾律などもはやまったく歯牙にもかけらなくなる、というわけか。

反対の行為を選ぶ潜勢的力能、あるいは潜在的な選択性は、続くスアレス(第三章)においてはさらに汎用的に拡張されるらしい。知性がもたらす判断に対して意志の同意を先行させることにより、意志の自由が担保されるという図式が、スアレスにあってはいっそう精緻化されるらしいのだけれど、その場合の意志の同意は、基本的に潜勢的な選択肢を<潜在的に比較する>ことから成り立っている。しかもそれは、あくまで回顧的に、後から「そういえば、これこれはあれとの比較で選んだのだな」とわかるような、というか再構成されるような比較であり、そうした比較があればこそ、別の選択もあったという意味で「事前に決定されてはいなかった、自由だった」ということが確信できるという類のプロセスなのだという。なるほどスアレスにおいて自由は、常に回顧的に見出されるものでしかないというわけだ。けれども実際の行動に際しては、比較の意識などまるでないような場面も多々ある。で、スアレスはそのような場合があることも認めつつも、そうした方向には議論を進めてはいかないのだという。それがスアレス、ひいてはイエズス会全体のある種の思想的限界(?)なのかもしれない、と。彼らにおいて抑圧されるもの(同書ではそれを選択という外挿によらない、内在的な「自己決定」だとされる)を救い出すには、どうやらデカルトを待たなくてはならないらしい。