分断と再生

先週のことだけれど、ポレポレ東中野で舩橋淳監督作品『フタバから遠く離れて−−第二部を観た。原発事故で避難を強いられた双葉町の住民を丹念に追ったドキュメンタリーの第二弾。いまさらながらだが、一言でいうならこれは分断・断絶を描いた作品。今回は事故後二年目から三年目を描いているせいか、その二重三重の分断状況がいやというほど目につき、静かな悲痛さがじわじわと伝わってくる感じだ。大きいものとしては、町長と町議会の分断、埼玉の旧高校校舎に避難した人々といわき市など他地域の仮設住宅に暮らす人々との断絶感、双葉町と他の原発誘致市町村との断絶などなど……。ほかにも画面の様々なところに、もっとミクロな分断・断絶が見てとれるような気がした。住民はそうした複合的な分断に、身をもって抗おうとしているようにも思える。一番印象的だったのは、避難所の大広間のテレビが首相の演説を映し出す中、その手前で、端がささくれ立ってけが人まで出たという畳を、住民の男性が紙テープで必死に修理しようとしている場面。応急措置でしかないわけだけれど、それでもなにかそれは、分断された状況そのものをなんとか塞ごうとしている姿のようにも見えて、なにやらとても痛々しい。

チェルノブイリの春これにも関連するが、併せ読んだものがあるのでそちらも取り上げておこう。原発事故の現場を訪ねるという趣旨のバンド・デシネ、エマニュエル・ルパージュ『チェルノブイリの春』(大西愛子訳、明石書店)。荒廃した無色の廃墟を訪ねる悲愴な覚悟で事故現場に赴いた作者は、そこで近隣に暮らす人々の豊かな暮らし見出す……、というルポなのだけれど、こちらはなんというか、分断された人々の暮らしが少しずつ再生し始めている様を描いていて、また別の意味で圧巻。時折差し込まれるカラフルな絵が情感を誘う。バンド・デシネが日本のマンガよりもはるかに「絵」的だということを(一冊一冊を「アルバム」って呼び方をするし)あらためて感じさせる、まさにイラスト・エセーという感じの一冊。末尾に、フクシマを取材した短編が収録されているのだけれど、そちらはまだモノトーンが似合う混迷のただ中にある。チェルノブイリのルポのように、いつかは再生の物語が綴られることを強く願わずにはいられない。