アエネイス註解、ダンテ、ブラバンのシゲルス

ラテン中世の精神風景柏木英彦『ラテン中世の精神風景』(知泉書館、2014)を読む。小著ながら、12世紀から13世紀のいわゆる中世盛期について、自由学芸、古典の受容例、イスラム思想(アヴェロエスなど)、スペインの翻訳事情などを通して、「精神風景」を切りとって見せようというもの。豊かな学識を背景に、ほとんどラフスケッチ的・まとめ的に当時の知の運動を描いている。言及される個々の事象は多岐にわたるが、どれも骨子が示されているだけなので、その肉付けは読む側に委ねられているということか。というか、その意味で様々なヒントが得られそうな一冊。

個人的にとりわけ興味深いのは、一二世紀の逸名著者(偽ベルナルドゥス・シルヴェストリス)による『アエネイス註釈』をめぐる第二章。この註釈書は、ウェルギリウスの『アエネイス』前半(六巻まで)を人間の成長の六段階に見立てている(ソールズベリーのジョンなどがそう考えていたが、厳密には間違いだとされる)など、全編、倫理的寓意に重きを置いた解釈を示したものだという。で、とくに問題となるのがその第六巻の冥府巡りの解釈。オルフェウスの冥府めぐりが引き合いに出されるわけだけれど、ここで『アエネイス註解』は、オルフェウスが叡智と言語能力を身につけている賢者、対する妻エウリュディケは善への本性的欲望を表すとし、振り向くことの禁忌は此岸的なものへの執着を断つことと解釈しているというのだ。ウェルギリウスのもとのテキストでは、オルフェウスは賢者とはされていない。振り返りの禁忌はボエティウスの『哲学の慰め』第三巻の末尾にもあり、これがキリスト教の教化的解釈の枠組みをなしているというのだけれど、そこでのオルフェウス像もやはりあくまで此岸に執着する人物で、賢者ではない。オルフェウスを賢者とし、エウリュディケを本性的欲望に比する源泉はどこにあるのか。どうやらコンシュのギヨームによる『「哲学の慰め」註解』などに同じ解釈があり、そこに、フルゲンティウスの解釈だというが、オルフェウスとエウリュディケを学芸(アルス)に関連づけた言明があるのだという。ほかにオーセルのレミギウス『「フィロロギアとメルクリウスの結婚」註釈』にも、そうしたアルスに精通した人物像としての解釈があるのだそうで、これらが全体的に意味をずらしながら(学芸に秀でた者→賢者といった具合に)、12世紀にオルフェウスとエウリュディケの位置が逆転したのだろう、という。このオルフェウス賢人解釈は後のダンテ『神曲』にまで及んでいて、オルフェウスはリンボにほかの異教の学者、芸術家たちとともにさりげなく住まわされている(地獄編、第四歌)。なるほど。

神曲 天国篇 (講談社学術文庫)柏木氏の同書では『神曲』がらみでもう一つ、アヴェロエス主義者として異端視された13世紀のブラバンのシゲルスが天国編(第一〇歌)に置かれていることについて、研究者の間で議論の的になったことにも触れている。先頃出て、訳文の流麗さと解説の秀逸さで話題になった原基晶訳『神曲 天国篇 (講談社学術文庫)の、その各歌解説を見てみると、これが議論を呼んだのは近代になってからだといい、独立運動(イタリア称賛のダンテが持ち上げられる)と新トマス主義の流行(ダンテもトマスの教義に依拠しているとされた)といった状況が背景にあったとされている。シゲルスは離在的知性説を放棄したことで評価され、トマスの思想との共通点ゆえに天国に置かれることになった、というのが同書での解釈だが、うーむ、このあたりはどうなのか。それで最終決着がつくというふうにはちょっと思えなかったりもするのだが……。