『哲学の慰め』と神義論

執筆意図が今一つ判然としない論考というのがたまにあるけれど、久々にそういうものを読んでしまう。なんだか入ったばかりの年末モードがちょっとばかり吹き飛んだ感じも(苦笑)……。ボエティウスの『哲学の慰め』は「悪」の問題をめぐる考察において破綻している……と訴える、ジャスティン・マクマナス「ボエティウスの見当違いな神義論」(Justin McManus, Boethius’s Misguided Theodicy: The Consolation of Philosophy, Discoveries vol. 4, 2002)という小論。ボエティウスは『哲学の慰め』で、アウグスティヌスに倣って「悪は存在しない」という議論を展開しているわけなのだけれど、同小論では、異なる概念同士を同等と見なす単純化のボエティウスの議論の傾向も問題だが、それ以上に、悪は無に等しいとする議論こそ重大な誤りだ、とされている。その帰結として、神には悪をなしえないのに人間にはなしうるという話になり、つまりは神にできないことを人間ができるということになってしまうではないか、というのだ。結局、悪の実在を直視できないボエティウスは、そうした悪の存在が全能の神への信仰と必ずしも矛盾はしないという議論に至らず、その点が問題なのだと。うーん、これはちょっとフェアとは言いがたい議論なのでは。そりゃ、ボエティウス自身が被った苛酷な状況からすれば、その楽観的にすぎる議論とのギャップは確かにあまりにも大きいようにも見える。けれども、『哲学の慰め』そのものは、哲学的な議論であるよりもむしろ詩作品としての意味合いが強いように思われる。古代からの自由学芸が培った修辞学などの伝統を踏まえつつ、初期教父への言及や文学的な配慮をふんだんに盛り込みながら、いわば身の境遇の嘆きを文学作品へと昇華させる試みのように読めるのだ。悪が不在だという神義論的テーマはまさにそうした類の文献的(文学的)伝統に根ざすものだと考えられる。だとするなら、神義論的な部分のみを取り出してその論理的破綻をあげつらうことに、どれほどの意味があるというのだろう。ボエティウスがどれほど論理的な破綻をきたしていようとも、『哲学の慰め』は大いに読ませる作品であるし、むしろ考えるべきは、ボエティウスがその当時において脱しえなかった思想的・宗教的枠組みとはどんなものだったのかとか、そうした矛盾を抱えてなお作品的な価値が見出されてきたとすれば、それはどういうところにあったのかとか、色々あるように思えるのだけれど。そもそも「神義論」(Theodicy:Théodicée)という言葉自体が17世紀のライブニッツの用語。用語の成立以前の歴史に遡ってその用語を当てはめるのなら、とりわけこういう議論の場合、その適用の仕方についての正当性などを本論に先だって説くなどの手続きも必要なんじゃないかなと。悪の不在というテーマについて取り上げるのであれば、これまた文学史的・思想史的に掘り下げるほうがよっぽど面白い義論になると思うのだけれど。というわけで、この論考を受けて逆にそうした史的な側面を改めて拾い上げてみたくなってくる。

wikipediaから。『哲学の慰め』14世紀のイタリアの写本から、講義するボエティウスの図。
wikipediaから。『哲学の慰め』14世紀のイタリアの写本から、講義するボエティウスの図。