久々に「雑感」

『シャルリー・エブド』襲撃事件後のフランスの追悼デモ。多くの人が「私はシャルリー」との、一見控えめともとれるスローガンを掲げている光景は、なにやら西欧の現代社会の「参照軸」または「シンボリズム」の無さ、弱さの一端を如実に表しているようにも見えてしまう。もちろんそのスローガンは、犠牲になった人々への共感と、その人々が抱いていたであろう表現の自由などの価値を擁護するという意味合いをもつのだろう。けれども、ジラールではないけれど、軸線をもたらすはずの聖なる座に、あまりに性急・露骨に犠牲者が捧げられているかのような印象で、どこか落ち着かない。そのままでは座に定着することもないだろうし、足早にその場を去ってしまうのではないか、などと考えていたら、『シャルリー・エブド』は次号で通常の一〇〇倍の部数を刷る予定だと言い、みずからさっそくその座を去ることを決めたらしい(苦笑)。彼らもまた所詮は資本主義の申し子なのであり、必ずしも別様の価値を体現するものではないわけで、聖なる座はやはり空虚なまま流転していくしか、あるいはまた別の犠牲者が捧げられるしかない、ということなのか。……というか、「売る」という文脈から限りなく離れた表現の自由の擁護は、果たしてまだなんらかの意味を持ちうるだろうか?

現代思想 2015年1月号 特集=現代思想の新展開2015 -思弁的実在論と新しい唯物論-青土社の『現代思想 2015年1月号』(特集=現代思想の新展開2015 -思弁的実在論と新しい唯物論-)を眺めてみた。メイヤスーやハーマンの新しい動向などが紹介されていて参考になる。メイヤスーは極限にまで押し進めた偶然性のカオスの世界観から、神が潜在としてありうる世界みたいな考察へとすでに進んでいるようで、一種の新しい神学(神論?)に向かっているというし、ハーマンは対象同士が「感覚的」(一般的な感覚の意味ではない)相で繋がるという構図をさらに進めて、感受学(この用語も通常の意味ではない)としての美学へと向かっているのだとか。個人的には、彼らの基本的な立ち位置以上に、そのディスクールの繰り出し方に興味を覚える。読者に「柄」「取っ手」「掴みどころ」のようなものを差し出しながら、それでもなお全体的にアクロバティックな議論を展開しようとしているあたりがその特徴ではないかと思うのだけれど(それはとりもなおさず、時代的な流れというか、古典化・保守化の傾向を感じさせる現代思想系の最近の研究にも一脈通じるものがあるようにも見えるが)、それぞれが新たに向かう先に及んでも、そうした「柄」の部分、「掴みどころ」の部分を保持できるのかどうかが気になるところだ。

同誌で個人的に最も興味深かったのは、アラン・バディウのプラトン回帰について触れている近藤和敬「存在論をおりること、あるいは転倒したプラトニズムの過程的イデア論」。国民国家がうまく機能しなくなったグローバル化時代の、いわば新たな参照軸を探す試みにおいて、バディウに倣ったプラトン的思考様式の可能性を探ろうというもの。プラトン的なものの形を変えた復権という意味では、それ自体はなかなか面白そうな試みに思えるのだが、一方で、上で触れた参照軸・シンボリズムの弱さではないけれど、バディウにしても(あるいは同論考でイデア論を見据えていたとされるドゥルーズにしても)、現象の圧倒的な広がりと強度に対して、提出される参照項はなにやら今となってはあまりに弱々しい印象を受けるのだが……?