異教の神すら……

事件からの時間の経過とともに「表現の自由の名のもとに、個人の信仰を愚弄していいのか」という論調の流れになってきた『シャルリー・エブド』の一件。それを見て思うことは、「表現の自由」ということに代表されている西欧的価値観は、宗教的なものを乗り越えた(歴史的に)普遍的価値であって、越えられた宗教の側がそれを批判するとは何事だ、といった「上から目線」が見え隠れするような気がする、ということだ。それはまさしく、敵対する諸宗教に対してキリスト教が取ってきたスタンスとパラレルなのではないか。一言でいうなら、こちらが懐が広い、こちらに倣えという論理。西欧的価値観と称されるものは、それを色濃く継承しているという意味できわめてキリスト教的・宗教的であり、宗教的な脱構築がなされるべきだとしたら、まさにそうした宗教的裏地のような部分を剥がしていくことにあるのではないか、と。

なんでそんなことを改めて思うかというと、折しも、マーク・ジョンソン「聖トマスは創造の教義をアリストテレスに帰したか」(Mark F Johnson, Did St. Thomas Attribute a Doctrine of Creation to Aristotle? New Scholasticism, vol.63, 1989)という少し古い論考を読んだから。これは、トマス・アクィナスの著作をおそらくは網羅的に眺めて、通説とは逆に、アリストテレスが創造説を抱いていたとトマスが考えているらしいことを浮かび上がらせた労作。もちろんトマスがそう端的に言い切っている文章があるわけではないらしいのだけれど、少なくともアリストテレスの神学が扱う神が、単なる不動の動者であるだけではなく、被造物すべての存在(第一質料も含め)を司っていること(付与していること?)や、あらゆる被造物がその神に依存していること、非物質的な実体や天体が恒久的存在であるとされてはいても、それらにもまた存在する上での原因(つまりは神)があると考えられていることなどが、様々な著書の要所要所から浮かび上がるのだという。なるほどトマスはかくも貪欲に(まあ、トマスに限ったことではないのだけれど)、アリストテレスの神学をも自家薬籠中のものとして取り込もうとしているようだ。たとえば『第一法令解説』(1261〜69)では、こう述べているのだという。「もう一つの誤りはアリストテレスのもので、彼はすべてのものは神からもたらされるとしているが、あくまで永遠的に、だとしている。また時間に始まりはなかったとも述べている。だが創世記第一巻には……(以下略)」。いつの間にか、アリストテレスの言う神はカトリックの神と同一視され、もはや他の神があった・ありえたことすら問題にはされなくなる。後にはカトリック信仰が連なり、それがすべてを席巻していく。