プロクロス『パルメニデス注解』第二巻から – 類似と相違

Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: Livre II (Collection Des Universites De France Serie Grecque)レ・ベル・レットル版で、プロクロスによる『「パルメニデス」注解』第二巻(Commentaire Sur Le Parménide De Platon: Livre II, éd. C. Luna et A.P.Segonds, Les Belles Lettres, 2010)を読んでいるところ。『パルメニデス』でソクラテスがゼノンに詰め寄る箇所についての注解が延々と続いている。けれどもこの冒頭部分では、類似と相違についての議論が展開しており、メレオロジー的な議論なども出てきてなにやら興味深いので、少しまとめていこうかと思う。基本的な流れはこうだ。パルメニデスの擁護者ゼノンによれば、(パルメニデスのように)多と隔絶した「一者」を考えるのとはまったく逆に、多だけが存在し一者はないとする巷の議論では、いろいろな矛盾が生じる。まずは一がないとなれば、多は共通するものをもたず「相違」するものとなる。しかしながら一に与らないという意味では共通性をもつがゆえに、「類似」するとも言える。こうして「相違」するものが「類似」することになってしまう。また、これはこうも言い換えられる。多は一に与らないので「類似ではない(非・類似)」が、一方で一に与らないという共通点をもつので「相違でもない(非・相違)」。結局、類似と相違、非・類似と非・相違という相反するもの同士が同時に成立することになる。

これに対してソクラテスは、同じ事物が類似と相違などの相反する属性を同時に取ることは驚くに当たらないという話を展開していくわけだ。で、プロクロスは、次のような説明を加えていく。まず(1)類似と相違が形相として知性(創造神)の中に存在すること、(2)類似と相違のそれぞれの本質(前者が限定的で集合的であるのに対して、後者は非限定的で分散的であること)、(3)類似と相違はいわば中間(すべての存在が与るものと、個別の存在が与るものとの間)の形相であること、(4)類似と相違は同一性と他性に対しては下位の位置づけをなすこと(つまり類似・相違は同一性・他性と一致せず、前者のペアが潜在性に関わるのに対して、後者のペアは存在(神をも含む)へとより広範に広がる)、(5)類似と相違の上下関係(一者を原理とする限りにおいて、類似は一者との類似である以上、相違よりも上位に置かれる)、(6)類似と相違の対立性(類似は類似として相違には与らず、相違は相違として類似には与らない)。メレオロジー的な議論を思わせるのは(3)と(4)。また(6)などは、人間と馬も相互に相手に与らないではないかという異論に対して、相補性(一方の否定が他方の肯定となること)の条件を加え、さらには別の異論に対して反転性(相手側に反転する可能性)の条件、一方が他方の存立条件になっていることなどの条件を加えて、規定の厳密化を図っていたりする(以上、721.23から742.4まで)。