類似と相違 (2)

再びプロクロス『パルメニデス注解』第二巻(Commentaire Sur Le Parménide De Platon: Livre II (Collection Des Universités De France Serie Grecque))から、短くメモ。類似と相違の話が長々と続くのは、要するにそれが、すべての存在するものがしかるべき範型に「与る」という、「参与」の問題を論じるための前段階をなしているからのようだ。類似と相違は中間的な形相としてあり、他のあらゆる形相がおのれの像を産出するために、類似と相違を必要とするという。まず、形相に与るもの(存在するもの)とは、形相に対する像であるとされ、一方の形相は範型(モデル)に位置づけられる。ではそこで像となるのはどんなものだろうか。まず知的なもの(知解対象)は像にはなりえない。なぜなら知解対象はもとより(範型から)分割できないものだから。知的なものについては原因と結果、単一と一組などとは言えても、範型と像のアナロジーで語ることはできないとされる。感覚的なもの(身体)についてなら、これは像にほかならないと言うことができる。プロクロスはここでもう一つ、知的なものと感覚的なものとの間をなすとされるものを持ち出してくる。思考的なもの(魂)だ。これもまた像であると言える。なぜかというと、魂は知性に対して、時間が永遠に対するのと同じような関係にあるからだ(プラトンによれば、時間は永遠の像をなしているのだという)。一方でそれは、永遠なるものと創造された世界との両方の一部をなす中間的な存在でもある。かくして、像ではない知解対象、像でしかない身体(感覚的なもの)、像と範型とにまたがる魂という三分割の構造が示される。類似と相違が中間的な形相だという話もそうだけれど、プロクロスはこの中間部分の議論がとても特徴的な感じだ。この後、話は本題の「参与」へと進む。要は、範型と像の間には様々な強度の違いがあり、範型に与る度合いの大小に応じて、各々が類似と相違を体現するのだ、とされる(以上、742-16から747-38)。